社長からの手紙

上高地自動車TOP > 未完の自伝 > season14|1989年 喜望の羅針盤

season14|1989年 喜望の羅針盤

2026.09.27 2026.09.27

1989年、私の人生第2幕が始まった。最初に取り組んだのは、企業理念を明文化することだった。初めての企業理念文書はA4版10ページに及ぶ長文だった。不動のアンビションと独自のマネジメント手法を書いたものだった。しかし、社員の反応が弱い。試行錯誤し、その後も5つのミッション、5つのビジョン等、執拗に問い続けた。以下は、2026年現在の我社の企業理念「喜望の羅針盤」である。

1991年、私は代表取締役に就任した。それまでは、名義だけ母に代表取締役になって貰い、道義的法的責任を回避していた。しかし、私が社長に就任した2か月後、母は突然この世を去った。息子が跡を取り重荷が降りホッとしたのだろう。父にも母にも苦労ばかりをかけた。その想いが、私の途切れることのないパワーの源泉になっている。

 社長になって暫くして、奇妙な話が飛び込んできた。1992年当時、弊社の近くに、著名なコンピューターソフト会社があった。その会社の財務担当の役員が、元・八十二長野銀行の役員で私のことを何故か気に入ってくれていた。暫くして、その会社の社長が来られて「君は見どころがあるから経営者協会に入り給え」と唐突に言われた。経営者協会は、経団連の地方組織であり、資本主義の総本山である。耳を疑った。私の素性を知った上でのお誘いだった。多分、当時、その会社の専務だったTさんが、松本深志高校の2年先輩の柔道部のキャプテンで、後輩でメチャクチャな剣道をして、学生運動のリーダーをしていた私を精神的に支援するつもりで推薦してくれたのではないかと思う。そういう事情で、元学生運動家で前科者?の私が、間違って、資本主義の総本山・経営者協会のメンバーになったのである。

長野県経営者協会に入ったその年に、年間事業として、10日間の中国経済使節団のプログラムが組まれた。私は毛沢東とも鄧小平とも違う考えを持っているが、毛沢東中国は、どちらかと言えばフレンドである。文革の前は、エドガースノーの「中国の赤い星」を読んで、三国志と重なる感銘も感じていた。こんな機会は二度と来ない、参加を決断した。

長野県内有力企業の社長ばかりの使節団である。中国の元駐日公使が通訳として同行してくれた公式な使節団で、大連、北京、上海、広州、珠海、深圳、香港と10日間の日程が組まれていた。大連では、大連市長主催の晩餐会も開かれ、最高の中国料理と10年ものの紹興酒が振る舞われた。大連市内も案内していただいた。

当時の大連は、困窮した庶民が溢れ、LPガスボンベを自転車で運ぶ女性の疲れた表情が印象に残っている。大連港にも案内してもらった。キャノン大連も見学した。旅順にも行きたかったが、当時の旅順は中国人以外には解放されておらず、203高地にも行けなかった。北京では、自動車産業マーケットに行った。自動車部品関連の店舗がたくさん出店していた。トヨタ、日産の純正部品を装ったコピー部品や我々が取り扱っている部品メーカーの優良部品も溢れていた。

そう聞くと、広州ルートや香港ルートが多かったが、どこで生産し、どういうルートで入って来るかは分からなかった。パッケージのお粗末さから考えると、メイドインジャパンではないという推測は付いたが、巨大な裏社会のシンジケートが暗躍していることを直感した。

部品とは別に、北京市内を走るクルマは、赤いダイハツシャレード、VWジェッタ(日本ではサンタナ、吉林省長春の第一汽車で作っていた)、それと広州ホンダが作っていたアコード、それ以外は、日本メーカーの相当古い中古車と洪水のような自転車とバイク。割り込みは当たり前、マナーは最悪、自転車は少し触れただけで喧嘩、道路インフラも最悪の状態だった。

日本車の相当古い中古車に乗っていた中国人に聞いてみた。

「このクルマは、いくらで買ったんですか?」「日本円だと100万円です」 

…ビックリした。

日本では解体され廃棄される潰しのクルマである。現在では考えられないが、30年前の中国のクルマ事情は、国内自動車産業が育っておらず、日本の中古車が引っ張りだこだったのである。

瞬間、閃いた!これはイケル!中古車を扱ったことはなかったが、売れ残りの中古車、解体予定の廃車をかき集めれば何とかなる。ビッグチャンスが目の前にあるのを直感した。

上海は、当時開発中だった浦東地区の副市長と意見交換した。30代前半の若者である。相当の権限を持っていることに驚嘆した。中国共産党のエリートだろうと思うが、30歳代の青年が、改革開放の指揮を執っていたのである。日本では考えられない。日本とのこの違いは、将来、競争力の巨大な格差を生むことになるだろう。方向が正しいかどうかは別として、予感は的中しつつあるように思える。歴史的建造物である豫園にも行った。素晴らしい芸術である。

 食は広州にあり。広州飯店にも行った。世界最高の食事が出来ると期待していた。しかし、日本人の味覚には合わないのか、誰からも称賛の声が上がらなかった。広州には、広州ホンダにも行きたかったが、計画には組み込まれなかった。

  次は深圳に行った。当時の深圳は、現在の姿とは全く異なり、少し前までは小さな漁村に過ぎなかったが、鄧小平の掛け声で貿易センターが出来、中国の新しい経済モデルとして急速に発展していた。その深圳にエプソンの深圳工場があり、社長を松本深志高校で同級だったO君がやっていたことから公式訪問が実現したのである。プリンターを作っていたと記憶しているが、中国人現地労働者が、工程表に基き、真剣に働いていたのが印象的だった。

  深圳の対岸にあるのが香港である。当時の香港は、中国に返還される前で、危険なガラパゴスのような街だった。一人では外出するなと言われていたが、香港の料理は絶品だというので、5人くらいで食事に行った。食事は、広州飯店よりずっと美味しく、日本人の味覚に合わせて作っているのではないかと思うくらい美味しかった。色とりどりのネオンが強烈で、ダウンタウンや裏通りは明らかに危険な雰囲気だった。翌日、全日程を終えて帰国したが、中古車輸出事業のヒントをつかむことが出来、大きな収穫を得たミッションだった。

シリーズ目次

📓 第1期(燃え盛る学生編)
プロローグ
📓 第1期 シーズン1 【1947年】
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
📓 第1期 シーズン2 【1960年】
60年安保、チボー家の人々
📓 第1期 シーズン3 【1962年】
松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行突破上映
📓 第1期 シーズン4 【1965年】
青雲の志 中央大学 学生運動
📓 第1期 シーズン5 【1966年】
自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト
📓 第1期 シーズン6: 【1967年】
佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト
📓 第1期 シーズン7 【1968年】
・新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ!
・成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕
📓 第1期 シーズン8 【1969年】
・6月保釈出所
・7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名
・7月共産主義者同盟学対部長
・9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流
・11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅
📓 第1期 シーズン9 【1970年】
・1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長
・2月政治局北朝鮮方針に反対
・反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕
📓 第1期 シーズン10 【1970年】
・3月31日よど号ハイジャック発生!
・逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄
📓 第1期 シーズン11 【1971年】
獄中への一通の手紙
📓 第1期 シーズン12 【1984年】
最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。
しかし判決は有罪、下獄。監獄改革、獄中の狂詩曲
📓 第1期 シーズン13 【1984年】
早期仮釈放嘆願10万人署名 仮釈放内示、大韓航空機爆破事件
📓 第1期(燃え盛る学生編)
エピローグ
♦️ 第2期(経営者としての奮闘編)
プロローグ
♦️ 第2期 シーズン14 【1989年】
喜望の羅針盤