社長からの手紙

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シーズン8|1969年 赤軍派に参画

2024.04.15 2024.04.15

私の1969年は、池袋巣鴨プリズンの独房で迎えた。夜明けのスキャットがラジオから流れていたことを覚えている。前年の防衛庁闘争が、無残で未遂の燃焼に終わった苦悩が私を苦しめ、ヘルメットと角材、デモの延長で闘う限界をどう突き破るか模索していた。

1月18日、東大安田講堂火炎瓶戦のニュースが飛び込んできた。驚喜した。
東大安田講堂占拠!火炎瓶!ゾクゾクするモチーフである。革命の予感が頭をよぎり、ゲバラやドラクロアの民衆を率いる自由の女神が二重写しになった。戦後史に刻まれる金字塔と言っても良い。軍事が現実の問題になってきたことを突き付けられた。後に聞いた話だが、安田講堂の最上階の屋根で最後までブンドの旗を振っていたのが、明治大学の上原だったことを聞いてキューピーに似た愛すべき彼の顔が思い浮かんだ。

6月。私は、前年の防衛庁逮捕組の最後の保釈者として巣鴨プリズンを出所した。出所した当時のブンドは、塩見孝也が武装蜂起を主張し、東京医科歯科大を拠点に、赤軍派を結成しようとする狂気が荒れ狂っていた。

参考:塩見孝也 著「赤軍派始末記」

防衛庁保釈組の早大の花園は、何のためらいもなく赤軍派に飛び込み、政治局メンバーになっていたが、私は10日程前に巣鴨プリズンを保釈されて出てきたばかりということもあって、状況が把握出来ずにいた。
武装蜂起を主張する塩見の方針は、余りにも唐突で受け入れ難いものを感じていた。私は、出身大学が中央大であり、系譜的には中大ブンドであったが、当時の中大は、叛旗情況派の圧倒的な影響下にあった。私が巣鴨に入っている間に急変していたのである。

私にとって大きかったのは、初代の中大全中闘委員長で当時全学連副委員長だった久保井さんの存在だった。学生会館の全国初学生単独管理を勝ち取ったときの2代目中大全中闘委員長が私で、さらに当時、私は都学連書記長をしていたこともあって、全学連副委員長の久保井さんとは共に全国の指導に関わっていた。その久保井さんがボリシェビキレーニン主義派(後の戦旗派)に所属していたことから、とりあえずの居場所を久保井さんが属するボリシェビキレーニン主義派に見出した。指導部は京大の渥美、医科歯科の岡野他だったが、それまで話したこともないメンバーで、どのような政治理論なのかもよくわからないまま、とりあえずの居場所という感じで参画していた。しかし、ブンド内では一応多数であったため、私は、それまでの戦歴と知名度を買われて学対部長をやるよう指示された。早大、明治、東大、京大、医科歯科、北大が中心で、中大は久保井さんと私だけだった。

7月6日、大変な事態が起こった。赤軍派が明大和泉校舎にいた仏ブンド議長を急襲し、拉致監禁暴行して、挙句の果てに破防法で逮捕状が出ていた仏議長を官憲に売り渡したというのである。赤軍派が仏派を襲撃し拉致監禁暴行したという事態が、私にはよく理解できなかった。
私は、前年の10月下旬から6月下旬まで巣鴨プリズンに拘禁されており、その間の組織内の対立、急変の情報をほとんど持っていなかったからである。

当時、私たちは、久保井さんに破防法の逮捕状が出ていた事情もあって、東京医科歯科大を根城にしていた。当時、病院を併設している大学は最も安全な隠れ家で、病院には夜勤のドクターや職員用の風呂もあり、ベッドもあって、安い学食もあって助かった。特に東京医科歯科は、御茶ノ水の駅前にあり、5つ星級のアジトだった。だから、赤軍派も別の部屋だったが、同じ医科歯科に居た。

翌日。叛旗情況派が、医科歯科の赤軍派を急襲し、塩見、花園、望月、物江を拉致し中大本部1号館に監禁したという情報が飛び込んで来た。私たちも同じ医科歯科にいたが、全く気付かなかった。後に聞いたことだが、この時、田宮も拉致されたが、医科歯科から中大に向かう途中にあるお茶の水の駅前交番に飛び込んで逃げたというのである。革命を標榜する者が警察の交番に逃げ込むというのは、驚天動地の行動である。愕然とした驚きと何かしらの疑惑を感じた。翌年、よど号ハイジャックによる北朝鮮行きを主導し実行したのが、この田宮である。彼は、勝鬨橋の決戦とか赤色軍事クーデターとか、我々が目指していた革命論とは明らかに異質な発想をしていた。
キューバ国際根拠地建設が赤軍派の基本路線であったが、何故、突然、北朝鮮になったのか? スターリンを忌避することについてはブンドは最も純粋だった。それが、我々にとっては、最も忌み嫌っていた暗黒のスターリン主義国家・北朝鮮に行くという主張が、どこから出てきたのか、今でも信じ難い。

塩見も田宮も既に亡くなってしまっているので永久に真実は解明されないかもしれないが、当時のブンドから赤軍派を含む新左翼が拠って立っていた政治思想の根幹に関わる大問題であり、組織の分裂にも発展しかねない問題である。1970年2月~3月、私は、長征軍隊長として、部隊を率いて京都に居たため詳細を承知していないが、どうしても理解できない不可解な闇を感じている。

一方、叛旗情況派が赤軍派を拉致監禁するという事態についても、私には理解ができなかった。私の認識では、赤軍派を結成した塩見たち、関西ブンド系と中大を中核とする叛旗情況派は、理論的系譜は違うが、殴り合うような関係ではないと思っていた。たぶん、前日の仏議長への赤軍派の暴行を逆手にとって、ブンド主導権奪回のために叛旗情況派の一部が仕掛けた醜い陰謀のように感じた。

私は、こういう奴らは本当に嫌いだった。たぶん、私は不条理だと思うものには後先かまわず敢然と挑みかかるが、陰謀紛いのことを本能的に忌避していた。政治には向いていないタイプの人間であろうとも思う。

私は、どちらにも顔が利く。しかもブンド学対部長という立場にあり、組織内の混乱を解決しなければならない責任があった。中大1号館に監禁されていた赤軍派の4人は、立場こそ違えど、共に戦ってきた同志である。監禁している当の面々がまた、中大の私の元部下であり、私が出ていけば中大の部隊は従うであろうと考えた。中大1号館は、勝手知ったる自分の家みたいなもの。いきなり押しかけて、拉致監禁されていた4人と会い、脱出の作戦を考えた。その2日くらい後のことである。脱出を試みた4人のうち望月が、地上に落下して戸塚病院に担ぎ込まれた。一報を聞いて直ちに病院に駆けつけたが意識がなかった。ご両親がきておられ、何日後かに望月が死んだことを知った。望月は、短い付き合いだったが、私の心に残る数少ない同志の一人であった。

中大から脱出した塩見たちが、関東学院に集結しているという情報が入り、話を付けるために電話した。電話に出た相手が誰であろう重信だった。「重信か!オメエたち『前田を殺せ!』ってシュプレヒコールやってるってじゃねえか!」 …そう言いながらも愛しさまで感じたことを覚えている。

参考:重信房子 著「革命の季節

重信は、明大の学費闘争で中大学館に避難してきた時から、それまで出会ったことの無い未知の知性と感性、野性を併せ持つ異次元の女性であることを感じていた。卑弥呼かクレオパトラのような特別な存在だと感じていたのは私だけではなかったと思う。魔女と言われた所以である。初めて告白するが、第二次ブンド分裂前、重信は、彼女の日記を私に見せてくれた。何かを伝えたかったのだろう。一週間ほど借りて返したことを覚えている。

そうしたこともあったのかもしれない。私は揺らぎ始めていた。やはり、行くべきところは赤軍派かもしれない。そう思い始めていた。8月、ブンド執行部は赤軍派を除名、それを受けて、9月2日、赤軍派が正式に結成された。9月5日、日比谷野音で行われる全国全共闘結成大会に赤軍派部隊が来るとの情報が入った。私はブンド学対部長として日比谷野音に突入してくる赤軍派を撃退する最高責任者の立場にあった。当日、私も現場にいたが、意気の上がる赤軍派に対抗し得る戦闘部隊は、どこにもいなかった。案の定、ブンド混成部隊は赤軍派に木端微塵に撃退された。ブンドでは何もできない、そのとき、そう確信した。

9月30日、赤軍派による東京戦争/本富士署攻撃が実行された。歴史が変わる10月が迫っていた。私は、八木健彦さんに会いたいと思った。八木さんの過渡期世界論が、私には最も近かったからである。過渡期世界論には、塩見過渡期世界論と八木過渡期世界論があった。少なくとも私は、そう理解していた。実際にきたのは政治局員のUだったが、当初のいきなり武装蜂起論から前段階武装蜂起論に方針が変更されていた。前段階武装蜂起とは、殺されることを前提とした自爆突撃の蜂起である。歴史に警鐘を鳴らし、民衆に決起を促し、次なる蜂起の起爆剤となることを目的としていた。吉田松陰、明治維新の志士たち、チボー家のジャックたちと同じ選択を迫られている。義のための戦死である。今が最も価値ある死に時ではないか? なお煩悶を重ねながらも、赤軍派に行くことを決断した。

当時の私は、法政、早稲田、立教、東医、日医を足場にしていたが、法政の部隊が私に就いてきた。後に、土田邸/日石、ピース缶爆弾で長期にわたって拘留され冤罪闘争を闘い、無罪を勝ち取ったメンバーである。

10月21日が迫っていた。赤軍派に入り最初に関わったのが10.21である。私は、赤軍派に参画する前、赤軍派の東京戦争という発想に違和感を持っていたが、実際に参画して異常な狂気のようなものを感じた。ダンプ調達の特命部隊が非合法でダンプを調達し、そこに赤軍派の突撃隊数十名が乗り込み新宿に突入、鉄パイプ爆弾を投げ込むという空前絶後の作戦である。どこに爆弾を投げ込むのか? 私は、それも知らなかった。突撃隊長が、事前に周到な計画を練っていたのかどうか、どこに投げても一般市民に犠牲者が出ることは目に見えている。結果は、連絡方法が制約されていた当時の通信事情から、青梅街道を突っ走るダンプに乗った突撃隊に、爆弾を手渡す場所の連絡が取れないという事態となり、幸運(?)にも未遂に終わった。

当時の連絡方法は、携帯やナビがある訳ではなく、新宿周辺青梅街道沿いの要所にレポを配置し、突撃隊が乗車したダンプが何時何分にどこを通過したか、公衆電話から中継司令部に連絡させ、中継司令部から極秘地点で爆弾を抱えて指令を待つ兵站責任者に連絡し、ダンプに届けるという方法である。私と重信が共同で前線指揮した初めての戦闘であった。私は、この10.21の時点では、赤軍派に参画したばかりで最高作戦会議には参加しておらず、誰がこの作戦を考えたのか定かには承知していない。私は前線と兵站との連絡指揮を任されていた立場。なぜ兵站から前線部隊に爆弾を手渡す場所を固定点として設定しなかったのか、指揮をしながら疑問に思っていた。受け渡し場所を作戦段階で決めておけば確実に渡せたはずである。なぜなら当時の新宿周辺には、我々が自由に使える大学や病院がいくつもあった。いずれかの大学か病院で受け渡すことに決めておけばうまくいったはずである。しかし、もしこの作戦が成功していたら、新宿駅周辺は火の海、多数の死傷者が出ていたはずであり、最高作戦会議に参加したメンバーだけでなく、私と重信も極刑に処されていた可能性がある。私も重信も生きていなかったであろう。恥ずかしながら、未遂で終わって良かったとは思う。

11月、前段階蜂起が迫ってきた。蜂起組と司令部組に分けられた。私は作戦闘経験が豊富だったことから当然蜂起組に入れられるものと思っていた。しかし、前段階蜂起後の首都東京の指揮に不可欠ということで司令部組に配属された。蜂起組は、大菩薩峠で軍事訓練を行い、首相官邸を占拠するという方針であった。政治局の八木、上野が総指揮、司令部は塩見と私。前線との連絡、出撃アジト確保、兵站は私がやることになった。赤軍派に入る前に、赤軍派は機関銃を持っているという話を聞いていたが、実際には大嘘だった。政治局の嘘デタラメで、実行部隊を欺罔(きもう)するための虚言だった。カストロ・ゲバラも、ホーチミンも、明治維新の薩長でも、軍事専門家がおり、強力な武器を持っていた。ひるがえって、赤軍派は主力が学生、軍資金もなく、武器はわずかな鉄パイプ爆弾、登山ナイフしか持っていなかった。

当時、愚かにも赤軍派は、11月に、前段階蜂起―首相官邸を占拠するという方針を広報宣伝していたので、首相官邸に接近した瞬間に間違いなく銃殺される。誰が考えても飛び道具なしでは勝負にならない。銃は一丁だけあったが弾がなかった。ウィリアムテルの洋弓が頭をかすめ、アメ横で購入した。ボーガンを手にして一晩瞑想したが、銃弾の前では、おもちゃだ。どうせ殺されるんだから、むしろ爆弾を抱えたまま肉弾突撃して自爆した方がインパクトを与える。最後は、白鉢巻に日の丸を書いて一斉突撃するということにした。なぜ日の丸を思い浮かべたのだろう、論理的には全く考えられない。しかし、武装蜂起の旗を揚げてしまった赤軍派にとっては、首相官邸突撃 全員自爆玉砕は、既定の路線であり、何が何でもやり遂げなければならないレーゾンデートルだった。歴史が動くまでには至らないであろうことを誰しもが気付きながら、死の突撃を決行するということだけが目的になっていた。一瞬でも歴史を止め、明日の地球を正常に動かすんだ。突撃を前にした我々には、革命と憂国が同居していたようにも感じる。

11月4日午後7時過ぎだったと記憶している。私のもとに大菩薩に派遣していたレポから電話が入った。福ちゃん荘から降りてくる途中、どう見ても公安らしい男たちとすれ違ったと! 当時、塩見と私は、上野のホテルで指揮を執っていた。ホテルから、必死になって「福ちゃん荘」に電話をかけたが、どうしても繋がらなかった。そこで、まだ塩山にいるはずのレポに連絡、「すぐ福ちゃん荘に戻れ、証拠となるものを処分して全員逃げろ!」。しかし、間に合わなかった。朝のテレビニュースで55名全員逮捕の映像を見た。

前段階蜂起は未遂のまま69年は幕を閉じた。12月になると、東大安田講堂戦で巣鴨にいたメンバーが続々と保釈され始めた。私は、顔なじみの差し入れ屋に陣取って、東大保釈組を門前で待ち構えオルグした。東大保釈組が唯一の希望だったからである。

1970年は、1月16日の御茶ノ水全電通会館での「武装蜂起集会」から始まった。私が宣伝ビラを書いた。方針は、70年秋 前段階蜂起とそのための国際根拠地建設であった。作戦名は「不死鳥/フェニックス作戦」。私が勝手に付けたものである。

70年秋に武装蜂起する?! 可能性は限りなくゼロに近い。しかし、政治局方針である。時間は限られている。リーダーとして動かすことのできる人材は極めて少ない。最も可能性があるのが、全国の大学に潜在するブンド系活動家とその予備軍だ。手許の人材を全国の大学に派遣し、強力な組織を建設する。毛沢東の長征をイメージして長征軍と勝手に呼称した。カストロ・ゲバラのキューバ革命とも重なる希望の筈だった。

希望と書いたが、それなりの根拠と裏付けがあった。キューバとの話が付いていたからである。

2月に入ると、長征軍を北大、小樽商大、東北大、京大、阪大、九大等に派遣した。私は大阪、京都を担当した。それまであまり関西には縁がなかったので、この時期は、田宮にも一時的に行動を共にしてもらった。阪大、近大、桃山学院に行ったのもこの時期だった。2月下旬には、いったん長征軍を東京に呼び戻した。大学が休みに入っていることもあって、成果がほとんど上がらなかったからである。

3月上旬には、体制を見直し、私は、部隊を連れて再度京都に入った。別の任務を言い渡されたからである。その任務は未経験のものだったので、時間稼ぎをしてネグレクトしていた。3月11日か12日だったと思う、政治局中枢から「部隊を連れて東京に戻れ」との指令がきた。3月13日に東京に戻り、3月14日に、新宿の喫茶店で若林と会い、大阪万博の開会式を一緒にテレビで見た。3月14日の夜、塩見に呼ばれて駒込の喫茶店に行った。

翌3月15日、田端のアジトをタクシーで出たところを尾行され、駒込駅前で塩見と一緒に逮捕された。

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
■ シーズン3:1962年 
松本深志高校、格闘家型剣道、宿題はマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
■ シーズン5:1966年 
全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館獲得
シーズン6:1967年 
成田空港公団現地事務所 突入総指揮、羽田
シーズン7:1968年
中大学費値上げ白紙撤回、10.21防衛庁突入
シーズン8:1969年
赤軍派に参画
シーズン9:1970年
3月31日よど号ハイジャック「 北朝鮮?!」
■ シーズン10:1970年
北朝鮮行きに反対した私が共同正犯/黒幕として起訴された。
謀議に参加しておらずアリバイもあったため裁判闘争スタート
■ シーズン11:1975年
獄中への一通の手紙
■ シーズン12:1984年
高裁、最高裁で謀議当日の私のアリバイは認められるも有罪判決確定。
プリズン留学12年、刑務所改革、提案制度、
房内所持書籍10冊・ノート3冊権獲得
■ シーズン13:1987年
早期仮釈放嘆願10万人署名 仮釈放内示、
大韓航空機爆破事件仮釈放取消
■ シーズン14:1989年
満期出所、友人たちがバスで出迎え、松本帰還
■ エピローグ