社長からの手紙

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シーズン4|1965年 青雲の志、中央大学入学、学生運動

2024.04.11 2024.11.29

私は、1965年4月、青雲の志を抱いて東京御茶ノ水の中央大学に入学した。中学3年の修学旅行で銀座、浅草、横浜を見て、田舎とは違う得体の知れない世界を知り、吸い寄せられるように東京に出たのである。未知への好奇心と青雲の志も密かに抱いていた。

1965年4月、中学の時同級だった友人と自転車で上京した。何故、自転車で行ったのか?それまで、田舎では、小学校から高校まで自転車は唯一の交通手段で、何のためらいもなく自転車で東京に行くことにしたのである。山梨県甲府で一泊し、勝沼、八王子を経て甲州街道を漕ぎ続け、暗くなって両国のアパートに着いた。3畳一間の狭い空間である。隣の部屋との仕切りは襖一枚で、喧嘩する声が聞こえて来たり、2階には派手な化粧のおばさんがいたり、相撲部屋が近くにあったこともあって、混沌とした異質な空間に面食らい、とんでもない所に来てしまったという思いで東京での生活が始まった。

翌日が入学式で初めて大学キャンパスに行った。青雲の志を抱いて自転車で上京した位だから、テンションは高かった。入学式の総長の挨拶は、司法試験、公認会計士、税理士試験は日本一、箱根駅伝6連覇、優勝回数、断トツ一位、確かに、この頃は、中大と言えば箱根駅伝と司法試験、税理士試験というイメージが強く、中大の黄金時代だったと思う。通り一遍の決まりきった大学宣伝だけで、期待していた感動的なメッセージはなかった。ところが入学式の途中、後ろで騒がしい声が聞こえた。何か大声で言っているが良く分からない。形ばかりの入学式が終わり、中庭で部活の紹介をやっているから、中庭に行けという指示があった。運動部や文化、学術、多くの部活がブースを構えて勧誘していた。

剣道部、自動車部等、気になる部活については興味深く話を聞いた。そして人だかりがしている場所があったので行ってみると、この人達が自治会で、私達が入学した年に一方的に授業料が値上げされたと言うのである。「それなら何故ストライキをやらないんだ」と言うと、この一言が、自治会メンバーにとっては期待以上だったようで、田舎から出てきた如何にも純朴で、一見強そうにも見える印象も手伝ってか、詳しい話をしたいから自治会室に行こうということになった。そして、私は入学式のその日から自治会室に泊まり込む異常な学生生活を送ることになったのである。

何かが私を突き動かしていた。戦争を辞めろ!人殺しを辞めろ!戦後民主主義教育を受けて育った初心な焼跡の世代が、当然のこととして思ったことを表現し、まともな世の中にしたいと思って行動しただけのことである。結果として、真面目過ぎたのか、麻雀も知らず、遊ぶことにも興味がなく、24時間、世界の行末ばかりを考える青春を送ることになったのである。

私の学生時代は、核兵器を保有する戦勝5ヵ国が国連常任理事国となり、東西冷戦、核による人類最終戦争の危機の時代だった。併せて、植民地支配を強いられて来た被植民地諸国の民族独立の時代でもあった。1945年の北ベトナム独立を皮切りに、1947年のインド独立、1949年の中華人民共和国成立、1951年の朝鮮戦争、1955年以降の南ベトナム解放戦争、1959年のキューバ革命、1960年日米安保条約改定、1962年キューバ危機、1963年ケネディ暗殺。

こうした背景の中で日本の戦後は、GHQマッカーサーによる占領から始まった。マッカーサーは、GHQ傀儡政権の首領として岸信介が適任と考えた。岸は、東条内閣の商工大臣として太平洋戦争開戦の詔書に署名し、満州の軍需経済を一手に担っていたが、敗戦濃厚となった1944年、講和を主張し、東条内閣の倒閣を画策した。岸は、A級戦犯として逮捕され東京裁判にかけられてはいたが、マッカーサーは、この一点に着目し、1948年、東条が巣鴨プリズンで絞首刑にされた翌日に岸を起訴もせずに釈放したのである。開戦の詔書に署名した人間が、起訴もされず釈放されたというのは極めて不自然である。GHQと岸の間に何らかの密約が交わされていたと考えるのが自然である。GHQから見れば、岸は、太平洋戦争を始めたA級戦犯ではあるが、反共思想の持主で、日本を、アジアにおける資本主義の防波堤とするためには、うってつけの人材であった。岸は、1952年サンフランシスコ講和条約によって公職追放を解除され、1957年総理大臣に就任し、1960年、当然のことのように日米安保条約改定を強行し密約を実行した。弟の佐藤栄作は、核の密約をひた隠しにして、米軍基地だらけの沖縄を本土復帰させ、米軍頼みの安全保障/日本列島核防衛線を構築したのである。この密約を暴露した毎日新聞の西山太吉記者は、裁判にかけられ投獄された。その後、密約の存在が明らかになったが日本政府は頑としてそれを認めなかった。西山記者は、最後まで戦い抜いたが、昨年帰らぬ人となった。大噓つきが霞が関を牛耳っている。不都合な事実は当たり前のように隠蔽する。こんな事が、50年以上前も今も日本で横行しているのである。何をするために学問をしたのか?不正と理不尽がまかり通っている、こんなことが許される筈がないのである。

私は、この東西冷戦/人類最終戦争の危機の時代に学生時代を送っていた。日本は、ベトナム北爆の出撃基地、兵站基地として戦争に協力し、連日、沖縄、横田の米軍基地からは米軍機が北爆に出撃し、ベトナムの民族解放運動を圧殺し続けていた。日本の軍需産業がこれをサポートし、米兵の死体洗浄アルバイトが貧者の生活を支えていた。

MI6ジェームズボンド、CIA、GPU、モサドが暗躍していた。或いは、日本の別班もいたのだと思う。ゴルゴ13なども同時代に生まれ、作者が亡くなった今日でもなお続いている。

戦後民主主義教育を受け、憲法9条・戦争の放棄を叩き込まれた無垢な青年が、心を痛めつけられ、何かに駆り立てられる気持ちを抱いたのは自然な感情であったと思う。ビートルズが世界中の若者のハートを揺さぶり、シーシュポスの煩悶と蒼茫の青春を送っていた時期である。

大学1年の12月には、学生自主管理による学生会館獲得のために、全学バリケードストライキを体験した。中央大学は当時、大学キャンパスが、水道橋の理工学部を除いて御茶ノ水の一画に集中していた。そこに4万人の学生が押し込められ、大教室にも学生が入り切らない状態が続いていた。全国の大学でも最悪の環境であったと思う。当然の権利として、我々は学生会館の建設を要求し、しかも、その学生会館を学生の自主管理によって管理運営したいと要望したのである。大学側は、当然のように拒否した。これまた当然のように、学生は全学バリケード封鎖をもって応酬した。ほゞお祭りである。面白かった。1年後、私が全中闘委員長になって、それを実現するとは思ってもいなかった。人生は分からないものである。

(つづく)

シリーズ目次

                                               
プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
シーズン3:1962年  
松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
■ シーズン5:1966年 
自治会委員長、全中闘委員長
全国初学生自主管理学生会館要求バリスト
■ シーズン6:1967年 
佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!
中大学費値上げ白紙撤回バリスト
■ シーズン7:1968年
新東京国際空港:成田は農地破壊/利便性最悪、新東京空港は東京湾上に作れ!
成田空港公団突入総指揮、逮捕
ベトナム戦争加担前線司令部・防衛庁突入総指揮、逮捕
■ シーズン8:1969年
6月保釈出所、7月赤軍派分裂、共産主義者同盟学生最高責任者(学対部長)
9月共産主義者同盟離脱、赤軍派へ、11月武装蜂起部隊全員逮捕
■ シーズン9:1970年
1月中央人民組織委員会委員長、全国長征:長征軍隊長
2月政治局北朝鮮方針に反対、北朝鮮反対派多数戦線離脱
3月15日別件逮捕
■ シーズン10:1970年
3月31日ハイジャック発生!黒幕?として起訴
1984年 最高裁で謀議当日のアリバイが証明されるも判決は有罪
■ シーズン11:1970年
~獄中への一通の手紙と監獄改革
■ シーズン12:1987年
早期仮釈放嘆願10万人署名、仮釈放内示
大韓航空機爆破(金賢姫)事件発生、仮釈放取消
■ シーズン13:1989年
プリズン留学12年、満期出所
友人たちがバスで出迎え松本帰還
■ エピローグ