私の名前はゴルゴ14。世の中の不正や不条理、理不尽を撲滅することを仕事としている。それともう一つ、裏の仕事だが、人を紡ぎ、慈しみ、アメイジングに生きるよう煽ったり、人類史のゲームチェンジを画策鼓舞している。職業は弁護士でも政治家でも学者でもない。会社経営の仕事はしているが、普通の社会人である。
ただ、絶望と悲嘆の苦痛を知っているので、時折、ドン・キホーテのような奇怪な行動をしたり、奇想天外なストーリーを喚きたてたりしている。よく本音で吠えることがあるので、ソクラテス過激派とかゴルゴ何とかとか言われることもある。諜報機関に目を付けられるような危険なことも時々口走っているので、酔っ払いを装って森の隠れ家で生活している。温泉とDAMのカラオケも入っているので、森の鶯とデュエットしたり、バルコニーで猿と鉄板焼きステーキを楽しんだり、リスト、ショパン、ラフマニノフ、バッハ、チャイコフスキーを聞きながら、未来の若者宛にラブレターを書いたりしている。毎日がワンダー!毎日がブレイクスルー!毎日がブラボー!毎日がアモーレ!である。道を創らなければ人類が滅びる分岐点にあるからである。
若くはないので、毎日が余命24時間のつもりで生きている。気力もパワーも衰えていない。生命保険には入っているが、明日生きている保証がないので猛スピードで跳び回っている。私が生きた証と歴史の真実を遺すために、夜中に跳び起きてゲームチェンジの作戦計画を夢想している。毎日が最後の仕事になるかもしれないからである。
時折、隠れ家を出て、街の居酒屋で、世界で起こっている政治、戦争、歴史、黙示録について捲くし立てている。話がデカ過ぎて付いていけないとか言われる。クレオパトラが私の元カノだったりするからである。
三国志の曹操、劉備、諸葛孔明、孫権、マハトマガンジー、ネルソンマンデラ、マーチンルーサーキングについて熱く語ったり、グレースケリーやビートルズについても延々と捲くし立てたりもする。「宇宙戦艦ガンジーが地球を救うために火星を飛び立って地球に向かっている」とか、自分でも付いていけない。
マハトマガンジーの非暴力は、私を強く動かした。人種隔離政策・アパルトヘイト撤廃闘争を率い国家反逆罪で投獄されたネルソンマンデラも獄中でガンジーと出会い、世界の世論を動かしアパルトヘイトを廃止に追い込んだ。終身刑を免除され、釈放されて大統領にもなった。キング牧師の名で知られる、マーチンルーサーキングの演説「I have a dream(私には夢がある)」は、今でも胸を躍らせる。ジョンレノンがイマジンで歌った ノーヘブン、ノーカントリー、ノーポゼッションも希望を感じさせた。しかし、天国も国家も無くならなかった。所有という魔性の欲望は、むしろ破壊的に増幅しているようにさえ見える。くわえて、現代は、核の狂気が席巻している。ガンジーが生きていても核の狂気を止めることは不可能のように思える。
不条理も理不尽も全く変わっていない。悲嘆に苦しんでいる人々の数は、ますます増えている。迷宮の出口はどこにあるのか?見つけるのは容易ではない。だから人間はサムシンググレイトを求め、どんなに科学が発達しても神を求める。そこに宗教が存在する根拠があり、聖書が2000年、コーランが1400年以上生き続けている理由がある。宗教の歴史が人類の歴史であるとさえ言える人間の事情が、そこにはある。だから、天国は無くならない。文明も言語も奪えない、だから国家も無くならない。
生命活動を維持するには空気、水、食料、エネルギーが不可欠である。アダムとイブ以来、そうした資源の争奪をめぐる、民族・国家の存亡を懸けた戦いが途切れることなく続いて来た。人口が増え続けるこれからの時代は、この生命維持ライフラインの争奪戦が、これまで以上に増幅することが予測される。
月や火星、宇宙空間の所有権争奪戦を見ていると、スターウォーズのただ中にいる感じで、ここに核が使われることを考えると、地球が燃える黙示録の前夜に立たされているようにさえ思える。もしかしたら今日が最後かもしれない。遺伝子学が画期的な細胞生成メカニズムを発見し、人類のDNAを変えることが出来ればと思っているが、仮にDNAを変異ささせることが出来ても、生命維持と不可分な所有は絶滅しないだろう。昔、無所有の勉強会にも参加していたことがあった。しかし、無所有は、生命が自然環境によって維持できる範囲内では成り立つが、生命が維持できない環境では、生命維持の戦いに勝たなければ死滅してしまうのである。戦争なしに共存できる魔法の知恵が求められているのである。
私は、人類が生き残る手掛かりは、フェアウェイであり、エンパシーであり、インクルージョンであると思っている。しかし、アプロ―チの手掛かりすら見えて来ない。だから酒を飲む気にもなれない。
ジョンレノンのイマジンが、世界中で歌われたのは1971年である。1960年代は、第二次大戦後、世界が最も荒れ狂っていた時代であり、キューバ危機、アパルトヘイト撤廃武装闘争、ケネディ大統領暗殺、アメリカベトナム介入、キング牧師暗殺、ベトナム反戦羽田闘争、フランス カルチェ ラタン、プラハの春、中国文革、防衛庁突入・新宿占拠、東大安田講堂、赤軍派武装蜂起?・・・と民族解放、革命が世界を揺るがしていた時代だった。
だから世界中で多くの若者が、戦争を阻止するため、人民解放のため、生命を懸け、戦闘の現場に立ち続けていた。しかし、その志士たちは、国家によって虐殺され、拘束され、独房に閉じ込められ抹殺されようとしていた。現実世界は不条理であり、理不尽であり、生命さえ奪われていた時代だったのである。訳あって、私もその一員として巣鴨プリズンの独房に押し込められていた。
生命は有限である。だから公正に分配すれば良いではないか?これが私の原点である。問題は、どうすれば公正な分配が実現できるかである。
寡占資本は、株主優先、利益優先で、生産を支える生産者のことは二の次で、当然、偏った分配になる。寡占の弊害抑止の仕組みは、形だけで何の役にも立っておらず、所有バトルは終わらない。従って戦争も無くならない。
独裁国家では、独裁者および独裁者周辺の金権集団にしか分配されない。庶民などは捨て駒、弾除けであり、明らかに排除すべき不正な分配である。
寡占資本及び独裁国家による不公正な分配の根本因子を如何に排除しフェアウェイを指し示すか、これが問題である。ダボス会議からも出て来ない。第3の道が求められている。
ラグビーの基本精神として知られるワンフォーオール・オールフォーワン:一人はみんなのために、みんなは一人のために! そして究極のノーサイド:戦闘中止!創世記に言う、始めはアルファであり最後はオメガである。互助会、無尽、協同組合そして社会主義の原理でもある。
しかし、人類は、何千年経っても殺し合いを続けている。戦争が終わる気配も全く無い。どうすれば、世界がノーサイドになるだろうか?どうすれば、核兵器を地球外共同墓地に埋葬し、幸せ開発目標を共有し、地球サンクチュアリを実現することができるのだろうか?
2022年2月24日、プーチンのウクライナ軍事進攻が始まった。私は、現代史は1945年2月のヤルタ会談から狂い始めたと考えている。今から78年前である。米英ソ3国による第二次世界大戦の戦後処理、世界分割の共同謀議である。アメリカはルーズベルト、イギリスはチャーチル、ソ連はスターリン、この3人が、その後の世界のシナリオを決めたことになる。ドイツの分割統治も、ポーランド分割も、バルト3国の処遇も、ソ連の対日参戦も、国連の設立も、この時に決められたシナリオである。ヤルタは、当時は、ソ連領クリミヤ半島南部の黒海を臨む保養地であった。トルストイやチェーホフが夏を過ごし、チェーホフは、ここで「3人姉妹」や「桜の園」を書いた。
そのヤルタの密約から3カ月、米英ソ3国の猛攻を受け、5月7日ベルリンが陥落しナチスが降伏した。8月6日アメリカが広島に原爆を投下、8月9日には長崎にも原爆を投下した。その同じ日に、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し満州に攻め込んで来た。ヤルタの密約が実行されたのである。
8月15日、終戦、玉音放送。日本は約310万人の軍人民間人が生命を落とし、アジア太平洋の多くの領土領海を失い敗戦国となった。ガダルカナル、レイテ、硫黄島、インパール、学徒動員、沖縄ひめゆり、神風特攻、人間魚雷回天、広島、長崎は、日本人が血で贖った負の遺産であり未来への警鐘である。
8月30日、連合国最高司令官マッカーサーが厚木に飛来した。サングラスにコーンパイプを咥えて降り立ったあの時である。9月2日、戦艦ミズーリ艦上で降伏文書が調印されGHQの占領統治が始まった。
私は、このGHQ占領下の1947年に長野県松本で生まれ。以来七十数年、人生の大半を歴史への懐疑と煩悶、歩むべき人間のフェアウェイを捜し、彷徨い続けてきた。不条理が大手を振ってまかり通るのが許せなかった。甘い道を避け、敢えて塩の道を選び、理不尽に正面から立ち向かってきた。催涙弾に向かって突撃し、何かを突き破ろうとしてきた。私に残された時間は少ない。あと一日かもしれない。利権と不条理にまみれた愚かな地球が、青く澄んだ惑星となることを願い、最後の時間と戦っている。空気と水と食料とエネルギーを公正に分配する仕組みを作ることができれば、それ以上、何を望むのか? 人類全員がノーサイド条約に加盟し、貧しくとも、人間の尊厳が守られる社会に変えることが第1のステージである。そこまで行けば、第2のステージが見えてくる。地球がアメイジングな花の惑星に変わることができればどんなに素晴らしいだろう。ノーサイド条約を拒否する非道な人間は、火星か木星の流刑地に飛ばしてやればよいのだ。
1947年、イギリス植民地だったインドが独立、1949年、毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の成立を宣言。1959年には、カストロ、ゲバラが、キューバ革命を成功させ、世界中に民族独立解放の大きなうねりが巻き起こり本格的な東西冷戦の時代が始まった。
こうした動きに対抗し、1955年、在日米軍は、砂川基地(現、立川市)を拡張したいとの要望を日本国政府に突き付けた。これに対し、現地反対同盟が結成され、反対同盟員が米軍砂川基地に侵入し、逮捕起訴されるという事件が発生した。反対同盟は、「日米安保条約は戦力の不保持を定めた憲法に違反する」と訴え裁判を闘った。そして1959年、東京地裁(伊達裁判長)は、「日米安保条約は、憲法前文と戦力の不保持を定めた憲法第9条第2項に違反し被告人は無罪」との判決を下した。世に言う伊達判決である。司法の良心を感じさせる名判決であると誰もが感じた。
そうした時代の立ち位置にあった時期に日米安保条約の改訂が迫っていた。多くの学生労働者は、日米安保条約の改定にノーを突き付けデモに立ち上がった。敗戦から僅か15年という時期であり、ノーモアヒロシマが国民の共通認識として定着し、戦争への強い拒絶感が大半の国民の意識だったからである。6月15日、国会南通用門前で樺美智子さんが、機動隊に乱打され虐殺された。国民に激震が走った。国論を二分する論争が沸き起こり、私の母校、松本深志高校では、全員が安保反対のデモに立ち上がり、その後に入学した私にも強烈な影響を与えることとなった。安保改訂を指揮したのは時の総理大臣・岸信介である。岸は、東条英機の右腕として満州傀儡政権を動かしていた張本人であり、東条内閣商工大臣として宣戦布告の詔勅に署名し、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた男である。しかし、この男は、CIAのエージェントになることと引き替えに、東条英機が絞首刑になった翌日に釈放された。統一教会(勝共連合)を日本に引き込んだのも岸信介であり、沖縄返還時の核密約をやったのが弟の佐藤栄作であり、2022年暗殺された安倍晋三は孫である。
1962年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚した。ケネディがキューバを海上封鎖し、ソ連艦隊がキューバに迫った。核戦争の危機が迫っていた。世界が固唾をのんで見守っていたが、ギリギリでフルシチョフが核戦争を回避した。
しかし、翌年の1963年ケネディーが暗殺された。犯人としてオズワルドが逮捕されたが、何者かによって殺された。誰が暗殺したのか?オズワルドに喋られると困る黒幕がいたのである。誰が黒幕なのか判っていても認めない。政治は月と同じである。欠けたり、消したり、時には光で幻惑し真相を隠す。
1964年にはアメリカの駆逐艦が、ベトナムトンキン湾で巡視中に北ベトナム魚雷艇に攻撃されるという事件が起こった。後にマクナマラ米国防長官が、アメリカの自作自演であることを明らかにしたが、アメリカがベトナム戦争に介入し、横田や沖縄から連日米軍戦闘機がベトナムを爆撃した。日本の軍需産業が強力にこれをサポートし、日本は、ベトナム北爆の出撃基地として戦争に協力し、メディアが連日戦況を報道していた。このベトナム戦争の最も激しい時期に、私は東京で学生時代を過ごしていた。戦後民主主義教育を受け、憲法9条・戦争の放棄を叩き決まれた無垢な青年が、心を痛めつけられ、何かに駆り立てられる気持ちを抱いたのは自然な感情であったと思う。ビートルズが世界中の若者のハートを揺さぶり、シーシュポスの煩悶と蒼茫の青春を送っていた時期である。
1967年10月8日、佐藤首相が南ベトナムを訪問するという、あってはならない計画が発覚した。我々は、佐藤首相が搭乗予定の専用機を羽田で包囲し、べトナム訪問を実力で阻止しようとした。京浜急行の大森海岸駅手前で京急電車を非常停止させ、鈴ヶ森ランプから羽田高速に駆け上がり羽田空港に進撃した。私はこの作戦会議に参加しており作戦内容も知っていたが、「10.8では指揮をするな!」と申し渡されていた。
そのため前面に出てはいけないと思いつつも、鈴ヶ森ランプから高速に駆け上がったとき、先頭を走っていたことを今でも鮮明に覚えている。このとき、誰が一緒に走っていたかも覚えている。しかし、その半数以上が、既にこの世の人ではない。この闘争で、別働の学生が弁天橋で殺された。
1968年に入ると、ベトナムのテト攻勢が始まり、プラハの春、フランスカルチェラタン、日本防衛庁突入と反戦の機運が世界中を覆い尽くしていた。この防衛庁突入の総指揮をしたのが私である。(詳しくは、シーズン1968年の稿で詳述)
1969年1月、東大安田講堂を火炎瓶が飛び交う日本学生運動における最大の戦いが起こった。全学連が総力を結集し、戦後の日本の国家の在り様にノーを突き付けた闘いであったと思う。国民への最も有効なプロパガンダとして選んだのが、国家権力の担い手の多くを輩出した東大安田講堂の占拠だったのである。レジスタンスの象徴・火炎瓶が、戦後日本で初めて飛び交った。全員が逮捕覚悟で籠城戦に身を投じた。そして全員が逮捕され長期に渡って身柄を拘束された。事実上、これが戦後学生運動の最後の戦いになった。運動は崩壊し、組織は分裂した。
運動の指導組織であったブンドが分裂し、赤軍派ができたのもこの年である。私は、前年の防衛庁突入で身柄を拘束され、巣鴨プリズンから保釈されたばかりだったため、ブンド内組織対立の詳細な事情を承知していなかった。分裂のときも現場に居合わせず、今でも何故そこまでの対立に至ったか詳しくは知らない。そのためもあって、私は、ブンドの学生最高責任者・学対部長の任にあり、赤軍派からは「前田を殺せ」とシュプレヒコールされる立場で、もともとの赤軍派ではなかった。私などは、多少はマルクスもかじっていたが、政治の駆け引きが嫌いで、何が真実か感性で読み取り動く人間だった。常に軍団を指揮してはいたが、フェアウェイを直進する反戦自由ラジカルの典型のような人間だった。
しかし、多くの推敲と煩悶を経て、赤軍派に共振するものを感じた。当時、赤軍派が主張していた「前段階武装蜂起」には、稚拙極まりない愚かさを感じていた。しかし、捨石として死を覚悟している人間がいることに動かされた。未だ21歳の学生である。全てを冷静に考えられた訳ではない。しかし軍団を指揮する立場にあり、躊躇する精神的余力はなかった。今がその時ではないと思いつつも、今を逃せば、次にいつその時が来るかイメージすることはできなかった。歴史が苦悶しているその時に最前線で戦死する、その方が自分に合っていると思った。今が生命を懸ける時だと考えたのである。ブンド学対部長という立場を投げ打って赤軍派に合流した。これが、私の最初のターニングポイントになった。
しかし、赤軍派は、組織的には想像以上に稚拙なズブシロの小児組織であった。蜂起の日程を広報宣伝し、政治局メンバーが新宿歌舞伎町の同じ喫茶店に何日も居て、マル秘ノートを広げたままパチンコ屋に行っていたり、機関銃を大量に持っていると喧伝していたが全くの嘘。軍事部門と言っても医学部系の学生が数人いる程度、拠点は東京と関西の数大学だけ、資金はほぼゼロ。赤軍派政治局の倒錯、妄想、無知に愕然とした。
怖れていた通り、11月5日早朝、大菩薩峠で訓練中の主力部隊55名全員が検挙された。赤軍派は僅かなメンバーを残すのみとなってほぼ壊滅し、迷走が始まった。やれ「赤色軍事クーデター」だ。赤軍派中枢を国外に退避させる「国際根拠地」だ。
1970年に入って、連日、中枢メンバーが逮捕され、私も1970年3月16日身柄を拘束された。私の22歳の誕生日で、大阪万博の開会式の翌日だったと記憶している。警視庁に身柄を拘束され過酷な取り調べを受けていたが、身柄を拘束されて約半月後の3月31日、世に言う「よど号ハイジャック事件」が起こった。取調担当検事も、当初はハイジャックという前代未聞の作戦が、赤軍派がヤッタものとは全く気付いていなかった。取調室で軽く聞かれただけだった。しかし、赤軍派の疑いが出始めたらしく、取調は過酷を極めた。検事から、実行した本人たちは「『北朝鮮に行け!』と言っている」と言われ、「北朝鮮に行けと言っているのが本当なら赤軍じゃないと思う」と答えていた。当時、赤軍派を含む新左翼は北朝鮮を最も忌み嫌っていたからである。特に赤軍派は第3の道を目指しており、到底考えられなかった。北朝鮮と言う選択を誰が言い出したのか?どのような理由からなのか、未だに不明である。キューバとは、横浜港のパナマ船籍の船に乗るということで話が付いていたので、まさかと思った。それが駄目になったのか、どうなのか?それが何故、北朝鮮に変わったのか?仮にキューバが難しい事情が出てきたとしたら、北京を選ぶのが常識的である。実行メンバーも事情を知らされずに、羽田に集められた可能性があると想像している。
しかし、検察はしたたかである。実行犯は国交のない国に強行出国して逮捕は不可能である。その代わり、警視庁に赤軍派議長の塩見孝也と前田祐一が「人質」でいる。この奇禍をうまく使って2人を黒幕に仕立て上げて起訴すれば国家のメンツは保てる。取調の中途から、塩見ノートと言われる作戦ノートを突き付けられ過酷な調べが始まった。警視庁の地下調室である。赤軍派議長の塩見が書いたノートであることは間違いなさそうだ。とは言っても、私は当然見るのは初めてで、コメントしようにもできるはずがない。赤軍派メンバーと思われる名前が各ページにたくさん書かれていた。ただ本名ではなく、組織名で書かれていたため誰のことか判らないものも多かった。
警察は、警察が書いた調書にサインすれば起訴しないという、いわゆる不起訴の「約束による自白」を強要してきた。不起訴釈放か死刑かどちらかを選べという脅迫である。死刑の恫喝は流石にキツイ。私はこのマジックに引っかかった。しかし、「起訴しないという約束」は当然のように反故にされた。私は幾つもの罪名で起訴され、長い裁判が始まった。裁判では東京で共同謀議があったとされた1969年3月3日-4日のアリバイが争われた。その日、京都で私と会ったという同志社大学生のノートと証言が決め手となり、私のアリバイは成立した。最高裁では、異例の大法廷で審議が行われることとなり、無罪判決が期待された。しかし、最高裁でも共同謀議当日の私のアリバイは証明されたが無罪にはならなかった。アリバイが立証されても投獄される、それが当たり前の時代だった。歴史は、こうした無数の嘘と捏造で溢れている。国家の威信をかけて、嘘を言い続けるのである。
たとえば1966年の袴田事件では、血に染まった嘘のシャツを検察が捏造し、それが決め手となって死刑判決が下された。再審請求の長い闘いの後、検察の捏造であることが立証され、袴田さんは釈放され再審を闘っている。メーデーの起源となったサッコとバンデッティの絞首刑も同じである。刑が執行された後、別の真犯人が出てきた。松川事件も同様である。土田邸日赤ピース缶爆弾事件も、真犯人が法廷で証言し全員が無罪となった。ちなみに、土田邸日赤ピース缶爆弾事件被告は、法政大学レーニン研メンバーであり、全員が私の直属の部下であった。嘘と捏造が真実を捻じ曲げる現実が、確実に存在しているのである。
私の場合、前田は知っていたと「推察される」という推察だけで有罪とされた。この判決は波紋を呼び、「ジュリスト」にも特集された。共謀共同正犯の危険な拡大解釈とされたのである。1970年代、冷戦が続いていた時代の日本は、赤軍罪と言う刑法に明文化されていない架空の罪名がまかり通り、危険人物はアリバイがあってもぶち込むというフェイク国家だったのである。私の中の何かが破壊され、煩悶と不条理を打ち破る長い闘いが始まったのである。
その後、1989年11月。東西冷戦の象徴ベルリンの壁が崩壊した。1991年にはソ連が崩壊し、冷戦が終わった。社会制度としての社会主義が死刑判決を受けたとも言える。
以降 今日までの30年間、アメリカ一強の時代が続いた。「民主主義と人権」を旗印に、核という無差別大量殺戮兵器を武器に、アメリカ政府、CIA、ペンタゴンが世界を支配してきたのである。
このことに決定的な反撃を加えたのがビンラディンである。2001年9.11、ニューヨーク国際貿易センタービルを2機の飛行機で直撃爆破した。
2003年にイラク戦争が始まった。フセインが大量破壊兵器を持っているという嫌疑である。その後、大量破壊兵器がなかったことが判明し、多国籍軍として参加したイギリスなど同盟国もアメリカを非難したが、ビンラディンもフセインも殺された。
2011年には、習近平政権が誕生し、今日の米中2極冷戦時代になった。そこにプーチンの狂乱が起こった。プーチンがピョートル大帝の再来となり、大ロシア帝国を復権するという妄想である。この間、核は持っていても使えないものとして認識されていた。しかし、核は使えないけど脅しには使える、核を持っていれば簡単には攻められない、核を持つことが最大の安全保障だという論理がまかり通り、イスラエルも、インドもパキスタンも北朝鮮も各保有国になった。
第二次大戦の戦勝国である国連常任理事国5ヵ国は、全て各保有国であり、核を持っていない国には簡単に攻め込めるし、領土や豊富な資源を分捕ることができる。だから、核を持とうとするすべての試みに、自分たちが核保有国であることを棚に上げて、ことごとく潰しにかかってきた。
2014のプーチンクリミヤ侵攻と、今回のウクライナ侵攻は、核を持っていない国には簡単に攻め込めるし、何でも分捕れることを証明した典型である。
もともとウクライナは、ソ連崩壊後の1990年代には、ソ連が保有していた1240発の核弾頭と176機のICBMを持つ世界第3位の核保有国であった。そのウクライナに核放棄を迫ったのは、アメリカとロシアであった。この時もしウクライナが核を放棄していなかったら、プーチンのクリミヤ進攻は起らなかったかもしれないし、今回の軍事進攻も起こらなかったかもしれない。
今こそ、核に翻弄される殺戮や宗教対立・異教徒排除の野蛮で愚劣な世紀に終止符を打ち、人類共通の普遍的価値観を創造し共生の扉を開くべきと思う。その分水嶺に、今 人類は立たされているように見える。
私は現在76歳。波乱の人生に果敢に飛び込み、現代史を変えようと数々の不条理を弾劾し、何千、何万の学生を示威行動に駆り立て、普通ではない人生を選択して来た。私は学生時代、2回殺されかけたことがある。1回目は○○党青年部右翼、日本刀で後ろから切りつけられた。その場で気絶し、病院に運び込まれたが4日後に意識が戻って生還した。2回目は、日本○○党地下軍事組織である。散弾銃で撃たれた。しかし、私は死ななかった。“お前には、やらねばならないことがある。未だ死ぬな”と天命を受けているようにも思う。与えられた命の持ち時間は多分わずかである。
私には、私にしか書けない、そして教科書には決して書かれない真実の歴史を証言する責任がある。
昨今、世界は破局に向かっていると人々が気付き始めた。脱炭素やSDGsが着目されている理由もそこにある。SDGsについては、人類と地球が直面する諸課題に対して、国家の枠組みを超えて取り組んでいるところに意義があると思っているが、SDGsが核兵器廃絶と宗教を除外している点に根源的な限界がある。核廃絶を除外したSDGsでは、歴史を変えることはできない。加えて、もともと中国もロシアもSDGsに関心があるようには全く見えない。中国、ロシアは共に独裁専制国家であり、SDGsなどウザいと思っているであろうからである。
宗教もSDGsでは触れられていない。宗教は、何千年もの長い間、人類と地球を戦争に巻き込み、第一次、第二次大戦以上の破壊と殺戮を繰り返してきた。宗教は救いにもなるが、常に異教徒排除の戦争要因を孕んでおり、人類が背負った重い十字架である。人類が生存する限り、宗教が一つになることはないであろう。そのことを容認して人類共通の普遍的な価値観を設計しなければならないのである。
近年、DEIと言われる規範が議論され始めた。
D:Diversity(ダイバーシティ)多様性
E:Equity(エクイティ)公平性
I:Inclusion(インクルージョン)包み込み
私には、DEIが未来の箱舟の規範になるように思われてならない。
さらに、私はDEIに加えてFairnessとEmpathyを提唱したい。フェアウェイとエンパシー:寄り添い感情移入である。Fairness、Diversity、Equity、Empathy、Inclusion…【FDEEI】が、人類の普遍的価値として醸成されていくべきではないだろうか。
時間がかかることは承知している。しかし、100年かかっても1000年かかってもフェアネス、インクルージョンが人類の普遍的価値として認知され、ターンブレイクしていくことを願っている。
学生時代、私は「戦争を辞めろ!人殺しを辞めろ!」と叫び続けた。それが私の原点である。しかし、戦争の原因は一つも減っていない。それどころか、資本主義の独占的破壊因子は暴走を続け、天文学的な格差を再生産している。株の操作に現を抜かし、自らを耕し生産する労働を放棄した詐欺師が跋扈(ばっこ)する世界は人間を滅ぼす。共産主義のパラドックスも重い。私は、社会主義が破綻する主原因は、マルクス主義が、人間の自由な生命原理を社会経済法則から封殺し、過渡期の政体であったはずのプロレタリア独裁が、独裁者と秘密警察によって専制と同じ倒錯に陥るパラドックスにあると思う。プロレタリア独裁という倒錯が目指した理念を狂わせてしまうのである。狂った独裁者の親分がスターリンであり、その末裔が習近平であり金正恩である。プーチンは、核を武器に大ロシア専制独裁を妄想するならず者であり、スターリンのDNAを引き継ぐ異端である。
私たちはこのスターリン主義に異を唱え、未来を開く第3の道を模索してきた。
我々には、常にインクルージョンがあり、イマジンがあったのである。
中国の台湾占領も、いつ起こっても不思議ではない。現に、青島、海南島には巨大な中国海軍の基地があり、台湾、南沙諸島、尖閣、沖縄を射程に、「遼寧」「山東」「福建」の空母と10隻の原潜を含む五十数隻の潜水艦が海中を暗躍している。津軽海峡を中国、ロシアの軍艦が自由に航行し、日本列島全体を自在に包囲し航行しているのである。マッハ10の極超音速ミサイルは北京から東京まで10分で到達してしまう。ロシア北方領土から東京までは6分である。いずれも、核を搭載して発射できる体制にあるのである。
インド-太平洋、そしてアジアーアフリカの安全保障はどうなるのだろうか、富が極限まで偏在する資本主義も問題である。普遍的な哲学規範と、新しい経済学が現れてほしい。
変えるべきは人類のDNAそのものである。人類のDNAを、FDEEIに変異させることはできないものだろうか? ウィルスでさえ変異していることを考えれば可能性はゼロではないのではないだろうか。ダーウィンやメンデル、アインシュタインだったらどうするだろうか・・・夢想してみたくなった所以である。
およそ50年前、私は自身のパラダイムをチェンジした。長い煩悶と12年に及ぶ「プリズン留学」を経て、今 私は、会社を経営する傍ら、煩悶の解答を追求し続けている。夜も眠れないが、死んでいる暇もないのである。