社長からの手紙

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シーズン9|1970年3月31日よど号ハイジャック「 北朝鮮?!」

2024.04.15 2024.04.16

1970年3月31日に、よど号ハイジャックが発生した。

「北朝鮮に行け」と言っているらしい。警視庁の地下取調室で、外で起こった「事件」を聞いた。「北朝鮮に行け」とは…? にわかには信じがたかった。

当時の北朝鮮は、最も忌避すべき最悪のスターリン主義国家という共通認識があった。60年安保以降、日本共産党から分離した反日共系組織は、反スターリン主義が綱領の中核原理であった。特にブンド系はスターリンを忌避することに最も純粋だったと思う。それが、どこから北朝鮮が出て来たのか? 当然ながら、北朝鮮を支持するメンバーはどこにもいなかったはずである。日本学生運動の最大のミステリーと言っても良い。本当に赤軍派なのか? 

しかし、現実はピョンヤンに行った。実行部隊の首魁は田宮であった。今から考えてみれば、田宮は、もともとかなりの軍事力学主義者である。1968年頃、彼が中央反戦を指揮していたとき、「勝鬨橋の決戦」を主張していたことはブンド内では有名な話だった。70年2月頃だった。突然、田宮が赤色軍事クーデターを主張し始めて驚愕したことを覚えている。

桜田門の警視庁地下調室で過酷な取調べが始まった。連日、早朝から深夜まで続いた。拷問はされなかった。しかし、近くの調室からの怒声や、たぶん机を叩く凄まじい音、呻き声を連日聞いていた。塩見が持っていたノートを見せられた。飛行機の座席図らしいイラストが書いてあった。23日間の取調べの後、起訴されて裁判が始まった。

私は共謀があったとされる3月3日―4日、若林と一緒に京都におり共謀に関与していないことを主張した。その後、私と当時会った同志社の知人がメモ帳に「私と会った」と記載した能率手帳が残っていることを突き止め、証拠として提出。同人が証人として出廷し、証言もしてくれた。

東京高裁と最高裁で私のアリバイは認定された。

通常であれば小法廷で開かれる最高裁での裁判が、大法廷で開かれるという連絡が弁護人から届いた。そのこと自体、無罪判決の可能性があることを示唆していると言われた。当時、ガンで病床にあった父に無罪の可能性が出てきたことを伝えた。しかし、判決は実刑12年。よど号ハイジャックの共謀共同正犯:「黒幕」というレッテルが張られた。父は、最高裁判決の直前亡くなった。息子が無罪になることを信じて、息を引き取ったものと信じている。

通常、アリバイが証明されれば無罪になるはずである。しかし、刑務所に送られた。この日本であってはならないことが起こっていたのである。

当時の法曹界に衝撃が走り、「判例時報」「ジュリスト」に、抗議非難の論文が発表されたことも後になって知った。私は死んでも死にきれないのである。

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
■ シーズン3:1962年 
松本深志高校、格闘家型剣道、宿題はマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
■ シーズン5:1966年 
全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館獲得
シーズン6:1967年 
成田空港公団現地事務所 突入総指揮、羽田
シーズン7:1968年
中大学費値上げ白紙撤回、10.21防衛庁突入
シーズン8:1969年
赤軍派に参画
シーズン9:1970年
3月31日よど号ハイジャック「 北朝鮮?!」
■ シーズン10:1970年
北朝鮮行きに反対した私が共同正犯/黒幕として起訴された。
謀議に参加しておらずアリバイもあったため裁判闘争スタート
■ シーズン11:1975年
獄中への一通の手紙
■ シーズン12:1984年
高裁、最高裁で謀議当日の私のアリバイは認められるも有罪判決確定。
プリズン留学12年、刑務所改革、提案制度、
房内所持書籍10冊・ノート3冊権獲得
■ シーズン13:1987年
早期仮釈放嘆願10万人署名 仮釈放内示、
大韓航空機爆破事件仮釈放取消
■ シーズン14:1989年
満期出所、友人たちがバスで出迎え、松本帰還
■ エピローグ