社長からの手紙

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シーズン7|1968年 中大学費値上げ白紙撤回、10.21防衛庁突入

2024.04.15 2024.04.15

1968年は、1月のベトナム解放民族戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。米軍・南ベトナム軍に対する解放戦線・北ベトナム軍のテト攻勢の勝利は世界を揺るがし、4月のキング牧師暗殺、パリの5月革命(カルチェラタン)、ドイツ赤軍結成、アメリカブラックパンサー、8月プラハの春、10月ブンド突撃隊による防衛庁突入へと世界が炎上した。過渡期世界論が第2次ブンドの指導理論となったのも1968年であり、私たちは、世界同時革命が始まっているかのような予感さえ感じていた。

50年前、日本の学生運動を最前線で担っていた我々は、いわゆる団塊世代のトップランナー。戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」第5福竜丸「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」「アンネの日記」を原体験に持ち、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた世代であった。

そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ日本という背信の国家であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。

私は、10月に入って間もなく10.21の総指揮を早大の花園と2人でやれとの密命を受けた。一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。

しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館2階自治会室隣りの印刷室を装った部外者入室禁止の会議室で開催された。標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。

参考:https://nordot.app/1088228441889325509

新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。

実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても、「投げる」という決断が下せず、断固とした強硬な主張をすることが出来なかった。
結論として防衛庁には使わないこととなったが、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたと思う。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。

事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない最悪の地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていた。したがって、如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちにあって全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ。従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒。最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来るはずだと考えた。

1968年10月20日深夜。直系30センチ位、長さ10本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルート、時刻に部隊別に、「乃木坂・防衛庁に集結せよ!」詳細は現場で指示すると絶叫し、20本の丸太棒を肩に担いだブンド最精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かった。

中大、明治、早稲田の最精鋭部隊を率いる私は、ニコライ堂前を通り過ぎ、御茶ノ水駅聖橋口改札を正面突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進撃、防衛庁正門まで何事もなく到着した。ただちに丸太棒を担いだ精鋭部隊が正門鉄扉に体当たり突撃。防衛庁内からは、数ヵ所から高圧の放水攻撃が始まり、びしょ濡れになったが、何十回となく体当たりを繰り返した。しかし、正門鉄扉はビクともしない。このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕で終わりだ。判断が迫られた。正門を乗り越えよう。「中から開けられるかやってみるしかない!」早大の花園が、最初に乗り越えた。しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭が木銃を構えて待機しており、一人ずつ拘束され連行されていった。後に一部部隊が1階無線室まで到達し占拠したことを知った。

もし、あのとき無線室からテレビ放送が出来ていたとしたら、ナパーム弾など人間殺戮の武器弾薬を満載した米軍機が、連日、沖縄や横田等の日本の基地からベトナムに発進し、多くのベトナム人が殺戮されていること、日本政府は、それに加担し「戦争の放棄」どころか、「戦争を後方支援し、大量殺戮に加担している」ことをアピールし、戦争加担阻止の歴史に残る闘いが出来ていたかもしれない。

もともとベトナム戦争は、1964年アメリカの駆逐艦が、トンキン湾で、北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けたということから、アメリカが北爆を開始したという内容で伝えられていた。しかしながら、4年後の1968年、当のアメリカのマクナマラ国務長官が、このトンキン湾事件がアメリカの自作自演によるでっち上げであることを認めたことから、世界中にベトナム反戦運動が拡大し、1973年にアメリカがベトナムから撤退に追い込まれるという謀略から始まった戦争である。

背景には、東西体制間対立があり、ソ連、中国、ベトナムの共産軍を食い止めなければインドシナ・アジア全体が共産化するという東西冷戦最前線だったことは間違いない。しかし、戦争を引き起こしたのはアメリカであり、それに手を貸していたのが日本であったことは間違いのない事実である。私達が、1968年1月、ベトナム解放民族戦線及び北ベトナムのテト攻勢に呼応し、日本の戦争司令部に抗議することは、戦後生まれの私達・団塊の世代にとっては、やむに已まれぬ思いでももあったのである。

当時のメディアは、私達のことを「暴力学生」の一言で切り捨てていた。
私たちは棍棒で殴られ血を流しながら、それでもチボー家のジャックと同じように、「戦争止めろ!人殺し止めろ!」と叫び続けることを止めなかった。

予想通り機動隊が動いた。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し連行された。1968年10.21は、丸太棒に象徴される学生レジスタンスの限界を示唆し、より高度な組織と戦術を問い掛ける形で終結しました。

私も逮捕されました。

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
■ シーズン3:1962年 
松本深志高校、格闘家型剣道、宿題はマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
■ シーズン5:1966年 
全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館獲得
シーズン6:1967年 
成田空港公団現地事務所 突入総指揮、羽田
シーズン7:1968年
中大学費値上げ白紙撤回、10.21防衛庁突入
シーズン8:1969年
赤軍派に参画
シーズン9:1970年
3月31日よど号ハイジャック「 北朝鮮?!」
■ シーズン10:1970年
北朝鮮行きに反対した私が共同正犯/黒幕として起訴された。
謀議に参加しておらずアリバイもあったため裁判闘争スタート
■ シーズン11:1975年
獄中への一通の手紙
■ シーズン12:1984年
高裁、最高裁で謀議当日の私のアリバイは認められるも有罪判決確定。
プリズン留学12年、刑務所改革、提案制度、
房内所持書籍10冊・ノート3冊権獲得
■ シーズン13:1987年
早期仮釈放嘆願10万人署名 仮釈放内示、
大韓航空機爆破事件仮釈放取消
■ シーズン14:1989年
満期出所、友人たちがバスで出迎え、松本帰還
■ エピローグ