社長からの手紙

上高地自動車TOP > 未完の自伝 > シーズン8|1969年 1月東大安田講堂占拠 、火炎瓶の時代へ 、6月保釈出所 7月ブント内ゲバ赤軍派を除名、ブント 学対部長 9月ブント離脱 /赤軍派に合流、11月赤軍決死隊逮捕

シーズン8|1969年 1月東大安田講堂占拠 、火炎瓶の時代へ 、6月保釈出所 7月ブント内ゲバ赤軍派を除名、ブント 学対部長 9月ブント離脱 /赤軍派に合流、11月赤軍決死隊逮捕

2025.06.04 2025.08.23

1969年は巣鴨プリズンで迎えた。夜明けのスキャットがラジオから流れていたことを覚えている。前年の防衛庁闘争が、無残な燃焼に終わった苦悩が私を苦しめ、ヘルメットと角材、デモの延長で闘う限界をどう突き破るか模索していた。

1月18日、全学連各派が、東大安田講堂を占拠し、それを排除しようとする警察機動隊と全面衝突する攻防戦が始まった。もともとは東大医学部学生 によるインターン制度 廃止に抗議するストライキから始まったものだが、全学連各派が東大安田講堂をバリケード 封鎖し、内側からコンクリートで固め、火炎瓶が飛び交 う戦後最大規模の闘争となった。あたかもバスティーユの牢獄を破壊してルイ16世を処刑したフランス革命 やドラクロアの民衆を率いる自由の女神が 頭をよぎる程の戦後史に刻まれる闘いだった。 火炎瓶の時代 が始まったのである。 私は火炎瓶登場前のヘルメットと丸太棒、角材の世代で、当惑の感情を覚えながらも、新しい時代が始まったことに高揚する自分を感じていた。

6月、私は前年の防衛庁逮捕組の最後の保釈者として巣鴨プリズンを出所した。出所した当時のブントは、防衛庁に突入した前年の10月頃と全く様相がちがっていた。火炎瓶の時代に入って、ブント内に激しい対立が起こっていたのである。特に異様だったのは塩見を中心とする関西ブント系のメンバーが、武装蜂起を主張し 、赤軍派を結成しようと していたのである。

参考:塩見孝也 著「赤軍派始末記」
※参考:塩見孝也 著「赤軍派始末記」

私には極めて短絡的に見えた。防衛庁保釈組の早大の花園は、何のためらいもなく赤軍派に飛び込み政治局員になっていたが、私は 一週間程前に巣鴨プリズンを保釈されて出て来たばかりということもあって、武装蜂起を主張する塩見の方針は、余りにも唐突で現実性のない 妄想のように感じていた。

私は出身大学が中大であり、系譜的には中大ブントであったが、当時の中大は叛旗 /情況派の圧倒的な影響下にあった。 私にとっては最も近い存在ではあったが、 思想家体質の評論家のようで波長が噛み合わなかった。

私は、前年の防衛庁突入時、 学対部員で私にとって 大きな存在だった早大ブントの村田能則さんが、どのような考えを持っているのか知りたかったが 、神奈川左派と言われたグループに属していたらしく会う機会がなかった。私が敬意をもって接し、最も近かったのが久保井拓三さんだった。久保井さんが、初代中大全中闘委員長、2代目中大全中闘委員長が私と言う関係にあったことも関係していたかもしれない。それと当時、 久保井さん が全学連副委員長、私が都学連書記長だったこともあって、久保井さんが 参画していたボリシェビキレーニン主義派(後の戦旗派)に何となく居場所を求めていた 。しかし、ブン ト内では多数派であったため、私は、それまでの戦歴?を買われて学生の最高責任者である学対部長をやるよう指示された。 副部長には、北大の活動家で成田空港公団突入で 一緒に千葉刑務所に入った現東大名誉教授 、横綱審議委員会委員長の山内昌之にやってもらった。

東大、京大、北大 、医科歯科、 早稲田、明治、法政、立教、青学、東洋が主力で中大は久保井さんと私だけだった。

当時、私たちは久保井さんに破防法の逮捕状が出ていた事情もあって、東京医科歯科大を根城にしていた。病院を併設している大学は最も安全な隠れ家で、病院には夜勤のドクターや職員用の風呂もあり、ベッドもあって、安い学食もあって助かった。特に東京医科歯科は、御茶ノ水の駅前にあり、5つ星級のアジトだった。だから、赤軍派も別の フロアーだったが、同じ医科歯科を使っていた。

7月6日、 ブント内主導権を巡る壮絶な内ゲバが発生した。 ブント指導部が、塩見赤軍派グループを除名しようとする動きがあったとのことで、 赤軍派が明大和泉校舎にいたさらぎ・・・ブント議長を急襲しリンチしたのである。私には何が起こったのか、にわかには理解できなかった。私は、前年の10月以降巣鴨プリズンに拘禁されて いたため、その間の組織内対立の情報を 何も知らず暴力を伴う分派闘争が起こる などとは全く予想していなかったからである。

同じ日だったと思う。今度は、叛旗/情況派が、医科歯科の赤軍派を急襲し、塩見、花園、望月、物江を拉致し中大本部1号館に監禁したという情報が飛び込んできた。 叛旗/情況派が赤軍派を急襲して拉致監禁するという事態についても、私には、全く理解できなかった。私の認識では、赤軍派 の塩見たち、関西ブン ト系と中大を中核とする叛旗 /情況派は、理論的系譜は 極めて対照的ではあったが 、暴力的に排除しようとする対立になるとは予想もしていなかったのである。 叛旗/情況派の味岡さんは 私の先輩だったし、薬師神は、私が自治会委員長の時の書記長で、私にとってはDNAこそ違うものの相棒のような存在だった。

しかし普段の活動時にはほとんど姿を現さない策謀家が突然表舞台に登場し、誠実無比な中大学生部隊を扇動し、塩見たち赤軍派中枢を拉致監禁したのである。歴史には必ず裏で暗躍する人間がいる、その男が、塩見たちを 「コンクリート詰にして東京湾に沈めてやる」と言い放ったときには身体が凍り付いた。まるでヒトラーかスターリンだ。こんな野郎が運動の仲間にいたことに愕然とした。

私はブント学対部長という立場で組織内の混乱を解決しなければならない責任があった。中大1号館3階に監禁されていた赤軍派の4人は、立場こそ違えど共に戦ってきた同志である。監禁している当の面々がまた、中大の私の元部下であり、私が出ていけば中大の部隊は私に従うであろうと考えた。中大1号館は、勝手知ったる自分の家みたいなものだ。押しかけて監禁されていた4人と会い、脱走策を考えた。

その2日ほど後のことである。 監禁されていた4人が カーテンを繋ぎ合わせてロープ代わりにして窓から脱走したという ニュースが入ってきた。 ただ、腕に力が入らなかった 望月が地上に転落して病院に担ぎ込まれたという。一報を聞いて、すぐ病院に駆けつけた 。ご両親が来ておられたが意識がなかった。その後、望月は意識を取り戻すことなく亡くなった。 同志社大学だったので、会う機会は少なかったが、 心に残る数少ない同志の1人だった。ブント内の同志殺しが起こったことを決して忘れてはならない。

魔性、重信房子との電話

中大から脱出した塩見たちが、関東学院に集結しているという情報が入り、話を付けるために電話した。電話に出た相手が、誰あろう重信だった。

重信か!オメエたち「前田を殺せ!」ってシュプレヒコールしてるってじゃねえか!そう言いながらも 、なぜ重信は赤軍に行ったのだろう?と思った。昼間は仕事をしてい た労働者だったこともあり 、柔らかい印象の中にも何物にも動じない印象があった。 典型的な文学少女タイプで 、灼けつくような美人だったこともあって 、人を惹きつける魔性のオーラを持っていた。 「魔女」と言われることも多かったが 、普通の女学生からは想像できない何かを持っていることを誰もが感じていたのである。

その重信が、なぜ赤軍派に行ったのか? しかも事実上、赤軍派の広報をやっている。当時は気付かなかったが、その後の重信の行動を考えると、彼女は東洋のマタハリと言われた川島芳子に似ている。川島芳子と言っても ほとんどの人は知らないと思うが、 川島芳子は清朝の第14王女として北京で生まれ、満蒙独立 運動を主導した 松本出身の川島浪速の幼女となったため、高校を松本高女(現在の松本蟻ケ崎高校)に通った後、成人して大陸に渡り、イトコであるラストエンペラー・愛新覚羅溥儀をたすけ、溥儀の 妻を脱出させるなど満蒙独立運動に重要な役割を果たした女性である。川島芳子の墓が松本の私の自宅のすぐ近くにあったこともあって、私には重信が川島芳子とオーバーラップして見える。

初めて告白するが、 赤軍派が分裂する直前、 重信は彼女の日記を私に見せてくれた。何かを伝えたかったのだろう、個人的な感情があったとは思えない。もしかしたらもない 。一週間ほど借りて返したことを覚えている。 そうしたこともあったのかもしれない。私は揺らぎ始めていた。 ボリシェビキレーニン主義派には強力なリーダーがいなかった。加えて中核となる政治理論の体系がなかったように思えた。 (この秋、戦えるのは赤軍派しかないかもしれない …)そう思い始めていた。

8月、ブント政治局は赤軍派を除名した。それを受けて9月2日、赤軍派が正式に結成され、9月5日、日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で行われる全国全共闘結成大会に赤軍派部隊が来るとの情報が入った。私はブント学対部長として日比谷野音に突入して来る赤軍派を撃退する最高責任者の立場にあった。

当日、私も現場にいたが何もできなかった。 ブント混成部隊は意気上がる決死の赤軍派に木端微塵に撃退された。日比谷野音という公衆の面前でブント各派と赤軍派との壮絶な内ゲバが行われたのである。その衝突は当時の週刊誌の表紙を飾り、赤軍派の勢いは天をも衝くのではないかと錯覚させた。ブントでは何もできない、そのとき共産主義者同盟ブントを離脱する決心をした。

赤軍派突撃隊の、死の覚悟は何を変えるのか?

歴史が変わる10月が迫っていた。私は赤軍派政治局の八木健彦さんに会いたいと思った。八木さんの過渡期世界論が私には最も近いと思っていたからである。会いに来たのは上野だったが、当初のいきなり武装蜂起から前段階武装蜂起に方針が変わっていた。当初のいきなり武装蜂起の荒唐無稽さが消え、前段階蜂起は、少数の決死隊が首相官邸に突入して全員が玉砕することによって民衆蜂起の起点を作るという ものであった。私には、仮に少数の決死隊が首相官邸に突入し全員玉砕したとしても 、社会全体がそれに呼応して決起し、キューバのような革命ができるとは思えなかったが、赤軍派突撃隊が死を覚悟していることは理解できた 。

今まで一緒に戦って来た友人たちである。ブントには無い爆発的な狂気があった。今を逃せば、次は、いつその時が来るのか想像することができなかった。確かに1969年秋の赤軍派は、少数ではあるが命を投げ打つ覚悟をしていた。この一点において、現代史上類を見ない特異で無私な決死隊がいたのである 。チボー家のジャックとも繋がる系譜である。 吉田松陰や高杉晋作の奇兵隊、坂本龍馬の海援隊とも通ずる純粋な集団 だった。私は既に2回殺されかかった体験を持っていたが、 今度は自分で選ぶ死の選択だった。

世界を変えることなど到底できるとは思っていなかったが、世界を変えるための一粒の麦になることを私は希求していた。今を逃しては永遠にその時はやって来ないのではないか。赤軍派の稚拙さも愚かさも感じていたが、青年突撃兵の死が、国家の在り方を変える可能性を感じたのである。

100%確信があった訳ではない。しかし追い詰められていた。意識が混濁した状態での選択だったが、赤軍派に入る決断をしたのである。

赤軍派に入ってみて確信する危うさと稚拙さ

赤軍派に入って愕然とした。 赤軍派政治局は、狂ったように武装蜂起を唱えていたが、トップの政治局員には、実戦で前線指揮をしたメンバーがいなかった。軍事のことなど何も分かるはずのない大学生と高校生だけの組織が武装蜂起を叫んでいる 。それも、せいぜい100人ばかりの小集団である。資金を提供してくれるスポンサーがいた訳でもない。金もなければ武器も無い、情報伝達方法も単純幼稚 、お粗末なズブシロの小児組織だった。スパイが潜入していた蓋然性 も極めて高い。当時の私は、法政、早稲田、立教、東医、日医、一部中大を足場にしていたが、法政の部隊が私に就いて来てくれた。後に、土田邸/日石、ピース缶爆弾で長期にわたって逮捕拘留され冤罪闘争を闘い、無罪を勝ち取ったメンバーである。

10月21日が迫っていた。赤軍派に参画して最初に関わったのが10.21である。私は、赤軍派に参画する前、赤軍派の東京戦争、大阪戦争という発想に生理的な違和感と拒絶感を持っていた。そもそも戦争という発想は、我々が最も忌み嫌っていたものである。 実際に初めて赤軍派の会議に参加して、 異常な狂気には驚嘆もしたが、危うさと稚拙さも同時に感じていた。

特命部隊が非合法でダンプを調達し、そこに赤軍派突撃隊数十名が乗り込み新宿に突入、鉄パイプ爆弾を投げ込むという空前絶後の作戦である。どこに爆弾を投げ込むのか? ターゲットはどこなのか、それも知らなかった。 軍事部門が、事前に周到な計画を練っていた とは思うが、投げる場所によっては多数の市民に犠牲者が出ることは目に見えている。結果は、連絡方法が制約されていた当時の通信事情から、甲州街道を突っ走るダンプに乗った突撃隊に、爆弾を手渡す場所の連絡が取れないという事態となり、幸運?にも未遂に終わった。当時の連絡方法は、携帯やナビがある訳ではなく、新宿周辺・甲州街道沿いの要所にレポを配置し、突撃隊が乗 ったダンプが何時何分にどこを通過したか、公衆電話から中継司令部に連絡させ、 連絡を受けた中継司令部が兵站責任者に連絡をつなぎ、ダンプに届けるという方法である。 この中継の仕事を私と重信が担当した。

私は、この時点では赤軍派に参画したばかりで作戦会議に参加しておらず、詳細な作戦内容は承知していなかったが、前線と兵站を繋ぐ中継役をしながら、なぜ兵站から前線部隊に爆弾を手渡す場所を予め設定しなかったのか疑問に思っていた。受け渡し場所を作戦段階で 安全を考えて複数地点を決めておけば確実に渡せたはずである。なぜなら当時新宿周辺には、我々が自由に使える大学や病院がいくつもあった。いずれかの大学か病院で受け渡すことに決めておけばうまくいったはずである。あるいは、ダンプを大学内の兵站基地に行かせて爆弾と突撃メンバーを乗せれば何の問題もなかったはずである。 こんな判断すらできない稚拙な組織だったのである。

しかし、もしこの作戦が成功していたとしたら、新宿周辺は火の海、多数の市民を巻き込む日本初の大規模テロ、無差別殺人になった可能性があった。 未遂で終わったから良かったものの実行されていたら 全員極刑である。 この作戦を考えたのは、たぶん田宮だと思うが赤軍派の感覚は狂っていたと言っても良い。

民衆の共感を味方にしなければ世界は変えられない。古くは秦の始皇帝も、三国志の劉備玄徳も、フランス革命も、毛沢東もカストロ・ゲバラも ホーチミンも 民衆、農民を味方に付けて勝利を手にすることができた。

そうした想いを抱きながらも、11月、前段階蜂起が迫ってきた。蜂起組と司令部組に分けられた。私は戦闘経験が豊富だったことから当然蜂起組に入れられるものと思っていた。しかし、前段階蜂起後の首都東京の指揮に不可欠ということで司令部組に配属された。蜂起組は、大菩薩峠で軍事訓練を行い、首相官邸 に突入するという方針であった。政治局の八木、上野が総指揮、司令部は塩見と私。 田宮が秘密の中央軍事組織委員会、政治局員の花園がいたら、重要な役割を果たしていたはずだが 、10月下旬に会ったのが最後でどこにいたのか分からなかった 。他の政治局員の高原、堂山も、どこで何をやっていたのか 分からない。一堂に集まることが難しかった事情が致命的な機能不全を生んでいた。

しかし、1969年秋の赤軍派は歴史上稀有な存在である。 少数の学生高校生が、徒手空拳で国家に立ち向かおうとしたのである。 気概の擲弾兵と言っても良い。

しかも赤軍派は、11月前段階蜂起―首相官邸占拠という方針を広報宣伝していたので、首相官邸に接近した瞬間に間違いなく銃殺される。誰が考えても飛び道具なしでは勝負にならない。

銃は一丁あるということだったが弾がなかった。アーチェリーが頭に浮かんだ。アメ横で購入して一晩瞑想した。しかし、あまりにも滑稽だった。庶民からもあざ笑われるのがオチだ。どうせ殺されるんだから、爆弾を抱えたまま肉弾突撃し、義の為の討ち死にであることをアピール した方が民衆の心に響くはずだ 。最後は、白鉢巻に日の丸を書いて突撃するという選択をした。

なぜ日の丸を思い浮かべたのだろう、曲がりなりにも左翼である。論理的には全く考えられない。

しかし、武装蜂起の旗を揚げてしまった赤軍派にとっては、首相官邸突撃全員自爆玉砕しか選択肢が残されていなかった。どんなにみっとも無くともやらなければならない。歴史が動くには至らないことを誰もが 判っていた が、歴史に生きた証 を残したいという想いがかろうじて自分を支えていた。

突撃を前にした我々には、革命と憂国が同居していたようにも感じる。 革命ができるとは思っていなかったが、我々は権力など存在しない無空の自由を欲していた。 みんなでおやきを作って食べたり、森のきのこを焼いて食べたり、アメ イジングな時間をみんなで楽しみたいと思っているだけだった。戦死すれば、それが実現されるとも思っていなかった。

11月4日午後7時過ぎだったと記憶している。私のもとに大菩薩に派遣していたレポから電話が入った。福ちゃん荘から降りて来る途中、どう見ても公安らしい男たちとすれ違ったと!

当時、塩見と私は都内のホテルで指揮を執っていたが、ホテルから必死になって福ちゃん荘に電話をかけたが、どうしても繋がらなかった。そこで、未だ塩山にいる筈のレポに連絡し、すぐ福ちゃん荘に戻れ、証拠となるものを処分して全員逃げろ! しかし間に合わなかった。朝のテレビニュースで53名全員逮捕の映像を見た。 全員では55名だったが、2名は調達のために山を下りていたからである。

前段階蜂起は何もできないまま完璧な敗北で幕を閉じた。赤軍派は、中央軍突撃隊を失い壊滅寸前の状態に陥った。 死ぬことを求めていた訳ではなかったが、今回も死ぬ機会を逃してしまった。精神のつっかい棒が折れ、何も見えない苦しみ に突き落とされた。

12月になると、東大安田講堂戦で巣鴨にいたメンバーが続々と保釈され始めた。 幸い、私にはたぶん逮捕状は出ていないだろうと思い、東拘の顔なじみの差し入れ屋に陣取って、東大保釈組を門前で待ち構え てオルグした、東大保釈組が唯一の希望だったからである。

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
シーズン3:1962年  
松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
シーズン5:1966年
自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト
シーズン6:1967年 
佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト
シーズン7:1968年
新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ!
成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕
シーズン8:1969年
6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名
7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流
11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅
シーズン9:1970年
1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長
2月政治局北朝鮮方針に反対
反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕
シーズン10:1970年
3月31日よど号ハイジャック発生!
逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄
シーズン11:1971年
獄中への一通の手紙
シーズン12:1984年
最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄
監獄改革、獄中の狂詩曲
■ シーズン13:1989年
早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生
仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還
■ エピローグ