1968年は、1月のベトナム 民族解放戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。そして2月-3月には、新東京国際空港 を巡る三里塚成田闘争を闘っていた。新東京国際空港については、当時の我々は東大大学院工学部都市工学科との共同研究から、新しい国際空港は、アジアのハブ空港にすることを目指し、東京湾上に作るべきと主張していた。東大都市工学研が技術的には可能であると請け負ってくれていた からである 。
なにより成田は 、都心からの距離を考えれば利便性が最悪であることは子どもでも分かる 。移動コストが膨れ上がり成り立たないのではないか。 加えて成田は、満州引き揚げの開拓者たちが血の滲む思いで開拓した、かけがえのない豊穣な農地である。
牧師で現地反対同盟の委員長もされていた戸村一作さんから正式な支援要請が来ていたこともあり、我々全学連は全力で応援していた。当時の東京都知事が経済学者の美濃部亮吉氏であったこともあって、我々は東京都との統一戦線が可能と考え東京都とも交渉した。その交渉窓口を当時東京都学連書記長だった私がやった。
3月始め、成田空港公団事務所に全学連部隊が突入した。その総指揮を私が執ったのである。現場で多くの仲間が逮捕され千葉刑務所に 拘留された。私も千葉刑務所に投獄された。もし50年前、新東京国際空港が東京湾上に建設されていれば、その経済効果は計り知れないものがあったはずである。 管制上の事情があることも承知していたが、利権に群がる愚かな政治家たちが失われた50年を生み出し、国家に 甚大な損害を与えたのである。
今になって、羽田を延伸し東京湾に拡張している。我々の主張に耳を傾けていれば、アジアのハブ空港は羽田-東京湾になっていたはずであり、失われた50年も発生しなかったはずなのである。その後、東京湾アクアラインが出来たことが何よりの証左であり、今や、海ホタルはオーシャンビューの一大観光地である。都市工学の観点から空港建設を考える ことがどうしてできなかったのか? 金権利権から物事を考える政治家の愚かさが国を亡ぼすのである。
1月のベトナム民族 解放戦線・北ベトナム軍の テト攻勢は世界を揺るがし、4月のキング牧師暗殺、パリの5月革命(カルチェラタン)、アメリカブラックパンサー、8月プラハの春、10月ブン ト突撃隊による防衛庁突入と世界が炎上した。 最前線で闘っていた我々は、世界史が 大きく変わる予感を肌で感じていた。しかし、 目指すべき 次の世界がどのような社会経済システム にすべきなのか、万人を説得できる明晰な社会科学を打ち出せるまでには至っていなかった。
我々は、焼跡の世代、 脱脂粉乳の 世代のトップランナーであり、戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」 「第5福竜丸 」「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」「アンネの日記」を原体験に持つ世代であり、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた。そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思を、ベトナム戦争の片棒を担ぐ背信の 祖国日本中央権力の象徴(防衛庁)にぶつけたいと思っていたのである。
私は10月に入って間もなく10.21の総指揮を早大の花園と2人でやれとの密命を受け、1人で密かに乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。 目立つとマズイので、花園には悪いが1人でやったのである。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブン ト内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第 2次ブント分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館2階自治会室隣りの印刷室を装った会議室で開催された。標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民が 集まることによるポピュリズム的効果を拠り所にする主張が多かった 。問題は、誰が戦争 を興し、誰が民衆を殺し、誰が地球と人類を滅亡に追い込もうと しているのか 、そのこと を鮮明に指し示すこと ではないのか! 新宿の喧騒の中で騒乱を起こすことではない 。ブントの組織決定は中央権力・防衛庁攻撃に決まった。
問題は火炎瓶を使うかどうか、 これが最も白熱した。この議論は誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用されて重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても「投げる」という決断が下せず、全体の流れに従うことになった。 結論として防衛庁には使わないこととなったが、もし、あのとき防衛庁に火炎瓶が投げられて防衛庁が炎上していたら、歴史は大きく変わっていたと思う。
しかし、歴史はこの防衛庁闘争から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブン ト分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない最悪の ロケーション で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で できており、簡単には壊れないことを思い知らされていた。従っていかに短時間で正門扉を破壊し突入できるか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちにあって全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したりできるはずだと考えた。
1968年10月20日深夜、中大学館近くの工事現場から、直系30cm位、長さ10m位の丸太棒20本を調達拝借し、中大学館内に隠匿した。翌10月21日、中大中庭で全学連委員長:藤本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルートと時刻どおり部隊別に「乃木坂・防衛庁に集結せよ! 詳細は現場で指示する!」と絶叫。20本の丸太棒を肩に担いだブント最精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かった。中大、明治、早稲田の最精鋭部隊を率いる私は、ニコライ堂前を通り過ぎて御茶ノ水駅聖橋口改札を 無賃突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進撃、防衛庁正門まで何事もなく到着した。直ちに丸太棒を担いだ精鋭部隊が正門鉄扉に体当たり突撃した。
防衛庁内からは、数ヵ所から高圧の放水攻撃が始まり、何十回となく体当たりを繰り返した が、正門鉄扉はビクともしない、このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕 で終わりだ。判断が迫られた。
正門を乗り越えよう。中から門扉を開けられるかもしれない !早大の花園が、最初に乗り越えた。しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭 部隊が木銃を構えて待機しており、一人一人拘束され連行されていった。後に一部部隊が1階無線室まで到達し占拠したことを知った。
もし、あのとき私が防衛庁無線室に突入できていたら、自衛隊員に向かって叫んでいただろう。「自衛隊の諸君!君たちは何故我々学生に銃口を向けているのか?我々は、 二度と神風特攻やひめゆりを繰り返したくないと願う学生の集まりである。君たちも、きっと同じはずである、 平和な日本を守ろうとして自衛隊に 入隊したはずである。 今、諸君は上官の命令で、 我々に銃口を向けている。しかし、 間違っているのは 国家であり、上官たちではないか? 銃口をただちに上官に向けていただきたい! もしどうしても、銃口を上官に向けることが出来ないなら、銃を 置いて我々に合流して いただきたい!!」そう叫んでいたはずである。
ベトナム戦争は、 1945年 日本の敗戦によって日本がインドシナから撤退して以降、東西対立の最前線として抗争が続いていた 。1964年、アメリカが 介入し、米 駆逐艦が 北ベトナム魚雷艇から攻撃を受けたと偽り北爆を開始した ことから始まった。しかしながら、4年後の1968年、当の マクナマラ長官が、このトンキン湾事件がアメリカの自作自演によるでっち上げであることを認めたことから、 ベトナム反戦運動 が世界中に広まり、1973年には、 ついに南ベトナムの 首都サイゴン(現在のホーチミン)が陥落し アメリカが 敗北するという 、誰も予想しなかった想定外の 事態が起こったのである 。
背景には、 ソ連、中国、ベトナムの共産軍を食い止めなければインドシナ・アジア全体が共産化するという東西体制間の対立があった からである が、民族解放運動を圧殺し、歴史を後戻りさせようとしたのはアメリカであり、 そのアメリカを後方 で支援していたの が日本だったことは間違いない事実である。このことに我々は許せないもの を感じ、戦争阻止に動いたのである。
私たちが、1968年10月 ベトナム民族解放戦線のテト攻勢に呼応し、日本の戦争 司令部に抗議することは、戦後生まれの私たち団塊の世代 にとっては、 極めて自然な 行動だったのである。学徒動員、神風特攻 、回天、ひめゆりの悲劇を二度と繰り返したくなかったのである。 それが止められなかったら、次の神風特攻は我々がやることになるのである。受け入れることなど到底できなかった。
当時のメディアは、私たちのことを「暴力学生」の一言で切り捨てていた。私たちは棍棒で殴られ、血を流しながら、それでもチボー家のジャックと同じように「戦争止めろ!人殺し止めろ!」と叫び続けた。投獄されることを名誉にさえ思っていたのである 。
予想通り機動隊が動いた。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し連行された。1968年10.21は、丸太棒やゲバ棒、ヘルメットに象徴される学生レジスタンスの限界を示唆し、より高度な組織と戦術を問いかける形で終結。私も逮捕起訴され、旧東京拘置所/ 巣鴨プリズンに投獄された。
巣鴨プリズンは、東条英機をはじめとするA級戦犯7名、BC級戦犯53名が処刑されたところである。所在地は東池袋3丁目1番地1号、池袋駅山手線内側の飲み屋街の近くで、駅から15分位、現在の池袋サンシャインである。地番変更前は西巣鴨であったため巣鴨プリズンと言われている。死刑囚はいるが、未決の拘置所である。死刑囚は、死刑執行まで未決だからである。1968年頃から、我々学生が多く収容されるようになったが、殺し叩きの凶悪犯、詐欺師、覚醒剤、選挙違反、それとヤクザもいた。
私が収容されていたのは、号棟は覚えていないが3階で、直ぐ下の2階は、死刑囚の専用フロア、彼らは、すぐそれとわかるように白の帽子を被っていた。いつ死刑執行されるか執行当日まで分からないため、毎夜呻き声ともつかぬ嗚咽が聞こえていた。
独房の小さな窓には、目隠しの黒いプラスティックが張られ外が見えないようになっている。飲み屋街のネオンがチカチカ見える場所だったからだ。松尾和子の「再会」に、「ちっちゃな青空、監獄の壁を!」と言う一説があるが、歌詞の通り、独房からは鉄格子が嵌められた獄壁と目隠しのプラスティック板の間の小さな青空しか見えなかった。
私の隣の房にはヤクザの親分が入っていた。親分が獄壁の窓越しに声をかけてきた。 顔は見えないが声は聞こえる。 「学生さんは何をやって捕まったんだい?」と問われたので「戦争止めろって防衛庁に殴り込んだんだよ」と答えた。それを聞いたヤクザの親分は、私のことが気にいったらしく、「学生さん、菓子や缶詰は食うかい?窓から渡すから手を出しな!」と気にかけてくれた。
ヤクザの親分には、ほゞ毎日と言ってよいくらい子分たちが差し入れに来て、部屋中が食糧で溢れていると言うのである。拘置所のメシは、残飯の寄せ集めで旨いはずがなく量も少ない。親分には、毎日、新聞の差し入れも入っているらしく、丸めた新聞紙の中に菓子や缶詰を入れ、各部屋備え付けの細い洗濯紐で両端を縛って、親分と私が、窓の鉄格子のすき間からありったけ手を伸ばすと届くのである。「ヤッター!」2ヶ月ほどお裾分けをいただいた。毎日が独房カフェである。新聞も見ることもできた。親分に感謝である。しかし、間もなく親分は、判決が確定して刑務所に移送された。
それと、ヤクザの親分は、新聞だけでなく、房内でボールペンも自由に使っていると言っていた。しかし、なぜか我々学生はボールペンを所持することも禁止されていた。手紙を書くときにも空いている独房に行って、そこに備え付けのボールペンで時間制限付きで書かなければならなかった。憤慨した。ボールペン寄こせ!ノート使わせろ!の集団ハンストをやるぞ。
ときどき面会に来る救援連絡センターに指示した。彼らが発行している「救援」誌に、ボールペン寄こせ!ノート使わせろ!集団ハンスト決行の記事を書け、と。
決行日がいつだったか覚えていないが、巣鴨プリズンに拘束されていた多くの学生諸君が賛同して集団ハンストを決行したのである。未決は、起訴されたと言うだけで有罪が確定した訳ではない。
無罪であると推定された処遇をすることが憲法31条で保証されている。ボールペンやノートを使ってはならないなどは、有効な公判準備にも支障をきたし、明らかに憲法に違反している。法務省が折れた。ボールペンとノートの所持使用を勝ち取ったのである。
(シーズン8へ続く)
■ プロローグ はじめに |
■ シーズン1:1947年 敗戦、帰還船、ビルマの竪琴 |
■ シーズン2:1960年 60年安保、チボー家の人々 |
■ シーズン3:1962年 松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映 |
■ シーズン4:1965年 青雲の志 中央大学 学生運動 |
■ シーズン5:1966年 自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト |
■ シーズン6:1967年 佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト |
■ シーズン7:1968年 新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ! 成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕 |
■ シーズン8:1969年 6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名 7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流 11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅 |
■ シーズン9:1970年 1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長 2月政治局北朝鮮方針に反対 反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕 |
■ シーズン10:1970年 3月31日よど号ハイジャック発生! 逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄 |
■ シーズン11:1971年 獄中への一通の手紙 |
■ シーズン12:1984年 最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄 監獄改革、獄中の狂詩曲 |
■ シーズン13:1989年 早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生 仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還 |
■ エピローグ |