第二次大戦はベトナムにとっても歴史的転換点になった。もともとフランスの植民地で、1940年以降は、日本軍が進駐占領していたが、日本の敗戦によって1945年9月にベトナム民主共和国が誕生したが、北部は中華民国、南部はイギリス、フランスが進駐し、東西対立の最前線として衝突が続いていた。
1954年、ジュネーブ協定で北緯17度線を境に南北に分割することが決議され、北をベトナム民主共和国(北ベトナム)、南をベトナム 国(南ベトナム)が統治することになったが、1964年、アメリカが、アメリカ艦船が トンキン湾で、北ベトナムに攻撃されたとでっち上げ 介入したのである。後にアメリカのマクナマラ国務長官がでっち上げであることを認めた 。(詳しくはNHK映像の世紀バタフライエフェクト:「マクナマラの誤謬」を見ていただきたい )1965年から本格的な 北爆が開始され 、沖縄からも横田基地からも米軍の北爆が続けられた。私が大学1年から4年の頃は、そのニュースが連日メディアに報道されていたのである。 1967年はその北爆がピークに達した 。
世界中でベトナム戦争反対のデモが組織された。しかし、日本は、アメリカ北爆の兵站基地であり、出撃基地であることを止めなかった。そして10月8日、南ベトナム政府の要請で、佐藤栄作首相が、南ベトナム・サイゴンに行くと言うニュースが流れた。 民族解放運動を圧殺するアメリカを応援するためサイゴンに行くと言うのである。 許しがたい 戦争加担行為 である。全学連として最大限の訪ベト阻止の行動が求められていると私は感じた。羽田空港から政府特別機で飛び立つと言う。羽田空港に突入して特別機を 数万の人間の鎖で包囲する。簡単ではないが 最も素朴な行動であり、 世論を動かす力になるはずだ。
問題は、羽田空港にどうやって近づくかである。羽田空港に行くには3本の橋が ある。そのいずれかの橋を通るか、いや首都高速を使うはずだ。首都高を封鎖して専用車輌を止めてしまえば良いではないか。海から潜入するという手もある。 そうした全学連 (中核派を除く 3派全学連) の作戦会議は中大学館5階の和室で行われた。 最も安全で情報が洩れる可能性がないからである。私は当時、中大学館のCEOの立場にあった。加えて東京都学連の書記長もしていたため、その作戦会議に参加した。作戦は、全国―東京都内全域から分散して品川駅を目指し、○時○分品川駅発の京浜急行に乗り込め。大森海岸手前で人為的に 車輌を緊急停車させ るから、目の前の 鈴ヶ森ランプから首都高速に駆け上がり羽田に向かう。 作戦が漏れないよう、当日の行動開始寸前まで絶対秘密厳守、機動隊との衝突に備え、長い旗竿を出来るだけ集め、殴られても良いような装備で救護部隊もできるだけ動員しろ。
まるで桶狭間に突入する織田信長軍の作戦会議である。私は当日の指揮はするなと上部から厳重に言われていたが、アドレナリンが出まくり、当日の戦闘現場を想像した。多分、これまで経験したことのない機動隊との壮絶な衝突が繰り返される筈だ。 警棒でボコボコにされることは分かり切っている。そこで考え付いた。ヘルメットだ。 それと、警棒の乱打に対抗する角材があれば、身を護ることができる。正当防衛だから違法性もない。 学館の館内放送を使って全員を自治会室に集めた。工事現場に放置されているヘルメットと身を護るために使えそうな角材を集めて来い。数時間して工事用の色の禿げたようなヘルメットが予想以上に集まった。しかし、どうも格好良くない 。これに立て看を作る時に使う赤のポスターカラーを 塗ってみた。メチャカッコいい。
学生運動史上初の赤ヘルが誕生した瞬間である。中大学館 自治会室に15個位の赤ヘルが並んだ。壮観で身震いした。すでに日が昇る時間である。歴史が動くと思うと、震えが止まらず、出陣の最終準備にかかった。
こうして1967年10月8日早朝、赤ヘルと角材を握った 100名以上の精鋭が中大学館から出陣した。その後、ヘルメットと角材は学生運動を象徴する ファッション になったが、我々ブントが赤ヘルであったから、他党派はもう赤は使えない。 ブラボーである。指定時間 前に京浜急行の品川駅に着いた。 全国から馳せ参じた強者が品川駅を占拠していた。仮に公安のスパイがいても(必ず居たはずである)、京浜急行で羽田空港駅まで行くんだろうと思ったはずである。
大森海岸手前で 手筈通り、 車輌が緊急停止した。非常ボタンを押して線路に飛び降りた。目の前が首都高速の鈴ヶ森ランプである。全速力で駆け上がった。 数人の機動隊が警棒と盾を持って待ち構えていた。僅か数人である。 学生部隊は少なくとも数百人はいる。怒涛のように機動隊を角材で殴りつけ、踏み倒し、日頃の鬱憤を振り祓う かのように、ありったけ踏み潰して首都高速を羽田に向かった。機動隊の影もない、作戦は当たったと思ったが、少し前進すると分岐点があり、 左右どちらかを選択しなければならなかった。私は指揮はするなと厳命されていたにもかかわらず、先頭を走っていたことを今でも覚えている。
このとき誰が一緒に走っていたかも覚えている。しかし、その半数以上が既にこの世の人ではない。思い起こすと涙が溢れてくる。作戦会議で 指示があった筈だが左に行くことになった。 しかし、これが逆方向の銀座方向に走っているのではないかと誰かが気が付いてUターンするという失態を犯してしまったのである。 どのくらい走っただろうか、前方に機動隊の小隊がいた。それ程の人数ではない、我々のこの数で突撃すれば突破できる、私はそう確信し一瞬の躊躇もなく先頭を切って突撃した。私ともう一人が機動隊の壁を突破した。残念ながら、ブントではなく、早稲田の社青同解放派の メンバーであったが、以前から知っていた人間だったので、その後は、互いに一目置く関係になった。
どういう経路を辿ったかは、よく覚えていない。次は、穴守橋を挟んで衝突した。穴守橋上に 警察装甲車のバリケードが並び、装甲車を倒さなければ前に進めない、 突破しても少数部隊では殲滅される。装甲車の上に乗って全体を俯瞰した。 装甲車を誰かが運転出来れば、装甲車を戦車換わりに突撃できるではないか、それとも装甲車を川 に突き落とせば、防波堤がなくなって 羽田空港に突入できるはずだ。 装甲車を燃やすということも一瞬頭をよぎったが、 放火は重罪になることを百も承知していたので放火は躊躇した。 装甲車のドアをぶっ壊せ!運転できる奴はいるか! 怒声が飛び交い、機動隊の放水が休みなく攻め立て、眼も開けていられない。ドアを壊すにも大ハンマーが要る。あるはずがない、これ以上は無理かもしれない、時間だけが経過した。
どの位の時間が経っただろう。弁天橋で学生が殺されたらしい。報道の腕章を巻いた新聞記者らしい青年が叫んでいる。情報を確認するためレポを走らせた。 学生が殺されたらしい。1960年の安保闘争で東大の樺美智子さんが国会南通用門前で虐殺されて 以来の犠牲者である。 そのニュースが伝えられた瞬間から、 戦争に反対する若き学生を虫けらのように殺す国家への怒りは頂点に達した。このニュースは、その日のうちに全世界に 発信された。アメリカはベトナムから出て行け!戦争を辞めろ!人殺しを辞めろ! ジョーンバエズの We Shall Overcome の旋律が世界中に鳴り渡った。
ベトナム戦争にノーを突きつける世界的な動きが加速したのである。総評が10月21日を国際反戦デーにすると提唱したことを受けて、アメリカでは20万人がペンタゴンを包囲する巨大な運動に発展した。
こうした動きを見て、私は10月21日当日 大講堂で 臨時学生大会を開催し、その場で、参加者全員に赤ヘルメットを被せ、そのまま会場の 明治公園に 繰り込もうと考えたのである。 学生大会の当日、中大大講堂は満席、放送研究会メンバーが 、ありったけの演出を考えてくれた。 We Shall Overcomeの歌声が響き渡り、 およそ3,000名の赤ヘル メットを被った学生が、戦争に勝利したかのような 怒涛の響きをたて会場である明治公園に向かっ た。会場は、総評 が主催者であるため、数万人の参加者で溢れかえっていたが、3,000名の赤い中大ヘルメット部隊が現れると、会場からは、異様などよめきが沸き起こった。誰も予想していなかった筈だからである。当日は 国際反戦デーとしての 集会だけだったので 、全学連を代表して私がマイクを 握った。最大動員は誰 が見ても歴然としていた し、全員赤ヘルを被って登場したインパクトは 、本気度の違いを最も雄弁に 物語っていたからである。
10月下旬 だったと思う。 岩波映画の 小川紳介監督が突然中大学館にやって来た。羽田闘争のドキュメンタリー映画をつくりたい、ついては主役をやって貰える活動家を捜している、と言う。学館の館内放送で事情を伝え呼びかけた。
我こそはと思う者は自治会室に集まれ! 間もなく10人以上が集まって来た。 予想以上に集まったため、小川監督の発案で、今、世界に向かって訴えたいことをアジってくれ!今でいうオーディションをやることになった。私は一番最後である。アジテーションが続いたが、いずれもパッとしない。私の順番になった。緊張することもなく、 それでも武道館ライブを一人でやる位のつもりでアジった。すると監督が「アンタが主役!」と叫んで跳び付いて来た。
翌日から映画カメラに追いかけられる毎日が続いた。次の闘争は、 11月12日の佐藤首相訪米 阻止羽田闘争である。 10月8日以上の戦闘が予測された。今度は私が総指揮をやれと言われることを半分期待していた。しかし、今度も「お前は指揮を執るな!」という厳命である。指揮が執れないのでは、限定的にしか主役を務めることは出来ない。それでも連日岩波映画のカメラに追いかけられた。
11月12日の当日を迎えた。 第二次羽田闘争である。 30人ほどの 決死隊が組織され、決死隊には フルフェイスのヘルメットを用意した。催涙弾の水平打ちから命を守るためである。
しかし、警察機動隊の装備を見て愕然とした。銀色に輝くジュラルミンの盾が 林立している。ジュラルミンの盾に突撃した。その瞬間、大音響が響き渡った。 至近距離で催涙弾の水平打ちが 強行されたのである。流石の決死隊も総崩れ となった。私は、指揮を執ることはしなかったが、決死隊の近くで変装して現場を目撃していた。 その時の映画が「現認報告書 -羽田闘争の記録」小川プロダクションである。私は、当時はこの映画を見る機会がなかった。しかし2020年頃だったか、この映画がDVDで発売されていることを知りネットで購入して見た。
確かに私が映っている。ハートに刺さるプレゼンができているし、どんな役者よりも本気である。 若くて溌溂としているし、純真さが弾けている。 しかし、指揮を執ることを封印されていた私は、 中大学館でのオーディションアジテーションの場面位にしか登場していない。 監督から「アンタが 主役」と言われていたから、もっと多くの映像が見られるものと 推測していた。その小川監督も数年前に亡くなった。
第二次羽田闘争は、武装した機動隊の前に 完璧に敗退した。 ヘルメットと角材では限界に来ていることが誰の目にも明らかになった。武装 を考えざるを得ない。しかし余りにも巨大なハードルである。学生運動の延長で考えられる問題ではない。戦略そのものの再構築が求められ、組織内対立が激化していくことになった。
続いて起こったのが、学費値上げである。 学費値上げという 裏情報が大学OB職員から入ってきた。大学の職員にもシンパがいたことも中大学生運動の際立った特徴である。我々は、そうしたアメーバのようなネットワークを 大学側内部にも 張り巡らしていたのである。
裏情報が入った数日後の早朝、 バス3台をチャーターして神楽坂にあった 総長宅に押しかけ、自宅を包囲し、強力な拡声器で 学費値上げを断念するよう 圧力を掛けた。
何故そこまでしたか!我々は、それまでに密かに大学の決算書を入手し、莫大な利益が出ていること、それ にも拘わらず学費を 大幅値上げするという、学生を食い物にする大学側の暴挙に憤慨し、やり場のない怒りを総長宅にぶつけたのである。その場で私は現行犯逮捕された。そのことが反対運動に火を点けた。
10月だったと思う。学費値上げを決定する大学理事会を丸の内ホテルでやると言う情報が入った。密かに準備し て理事会当日に丸の内ホテルを直撃した。 こちらの情報が漏れたか、大学が予め手配したのかは分からないが、丸の内ホテルロビーで機動隊と衝突した。この時も私は現行犯で逮捕された。ちょうど大学祭である白門祭を準備していた時期だったので、 留置されていた牛込警察署に面会に来た弁護士に、 面会室で「獄中アピール」を 口頭で伝え メモしてもらい、立て看を 作って抗議するよう指示した。留置中に白門祭が始まるので白門祭に来る学生諸君の目に留まる機会も多いはずだと考えたからである。
その効果は予想もしない形でやってきた。私は白門祭の委員長も兼務していたので、白門祭委員長が、学費値上げに反対して逮捕され、白門祭に参加できないという事態に大学が畏れおののいたのである。 信じられないかもしれないが大学が裏から手を回し、白門祭が始まる当日に 私を釈放する裏工作をしたのである。実際、牛込警察署で学生部長とも会って釈放の事情も聴いた。その足で大講堂で始まっていた白門祭開会式に乗り込んだ。 警察に留置されている 筈の私が、 大講堂入口から白門祭開会式の壇上に駆け上がって登場したのである。学生諸君の大歓声が今も耳に残っている。
ちなみに、この年の白門祭のメーンイベントに呼んだの が加藤登紀子さんで、まだ当時現役の東大生であったが、デビュー曲 の「赤い風船」を私が好きだったので呼んだのである。その後、全学連委員長になった藤本敏夫さんと結婚されるとは想像も出来なかったが、 加藤登紀子さんに 百万本ではなかったがバラの花束をお渡しした。後に、「百万本のバラ 」という唄が歌われるとはさすがに想像できなかった 。12月になって全学をバリケード封鎖し 、年を越して1968年2月に白紙撤回を勝ち取った。 学費値上げの 白紙撤回は、全国の大学で初めてである。前年の学生単独自主管理の学生会館獲得に続く2年連続の全面勝利である。
ほゞ同じ時期、大学の八王子移転という情報が入ってきた。確かに、神田駿河台キャンパスは、余りにも狭い。しかし、情報を集めてみると本部も含めた全面移転という構想らしいことが伝わって来た。在校生として考えても、学生街の象徴としての神田駿河台を捨て、八王子という多摩の田舎に都落ちするのか!という素朴な疑問があった。大学全体としても、そうした空気感が強かった。
そこで、自治会としての対案を作成した。本部と看板学部である法学部、商学部、図書館、学生会館は、神田駿河台に残すべし。理工学部も水道橋で変える必要はない。八王子はサテライトとして考えるべきだ。全てを八王子に移転させることは 中大の崩壊に繋がると キャンペーンを張ったが、愚かにも大学は私が投獄された後の1978年に八王子全面移転を強行して中大黄金時代に幕を引いたのである。
昨今、大学の格付けなるものをネットで見かける。トップ格付は、早慶上理ICU、第2グループがMARCHとか、最近では、Gが加わってGMARCHか。いつも苦々しく思っている。
中大では、こうした現状に危機感を募らせていたのだろう。箱根駅伝も、近年、もしかしたらという位置にまで戻ってきた。そして 昨年、看板学部の法学部が文京区茗荷谷に、駿河台、小石川にもキャンパスができて都心回帰が急ピッチで進行している。 失われた50年であり、戦略を間違えた典型である。八王子全面移転反対を叫び続けた我々学生の主張に耳を傾けていたら、トップ格付からランク落ちし、MARCHなどと言われる屈辱を受けることもなかったはずである。
中大が箱根駅伝の王者として復活することを心から願っている。なぜ箱根駅伝に拘るか?私自身が、毎日20km走っていたアスリートだからであり、100kmウルトラマラソンも走った 、こだわりのマラソンマンだったからである。
(シーズン7へ続く)
■ プロローグ はじめに |
■ シーズン1:1947年 敗戦、帰還船、ビルマの竪琴 |
■ シーズン2:1960年 60年安保、チボー家の人々 |
■ シーズン3:1962年 松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映 |
■ シーズン4:1965年 青雲の志 中央大学 学生運動 |
■ シーズン5:1966年 自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト |
■ シーズン6:1967年 佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト |
■ シーズン7:1968年 新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ! 成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕 |
■ シーズン8:1969年 6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名 7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流 11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅 |
■ シーズン9:1970年 1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長 2月政治局北朝鮮方針に反対 反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕 |
■ シーズン10:1970年 3月31日よど号ハイジャック発生! 逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄 |
■ シーズン11:1971年 獄中への一通の手紙 |
■ シーズン12:1984年 最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄 監獄改革、獄中の狂詩曲 |
■ シーズン13:1989年 早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生 仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還 |
■ エピローグ |