社長からの手紙

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シーズン4|1965年 青雲の志、中央大学入学、学生運動

2024.04.11 2025.08.23

高度経済成長期の中央大学へ

私は、1965年月、東京は御茶ノ水の中央大学に進学することが決まった。中学3年の修学旅行で銀座、浅草、横浜を見学して、松本の田舎とはまるで違う都会の華やかさに触れた。吸い寄せられるように東京を目指した。未知への好奇心 と密かな青雲の志を抱いていた。その志が何なのかは分からなかった。

高度経済成長だ、もはや戦後ではないというスローガンはあっても、松本のような地方都市ではまだ戦後が続いていると感じていたし、米ソの対立と核戦争への不安、理不尽なベトナム戦争など、社会の不穏な空気の方を私は強く感じ取っていたと思う。義憤の気持ちをどこかにいつも抱えていた。

「何でも見てやろう」の小田実にも影響されていた。義憤を晴らしてやりたいと言う点では、現代の池井戸潤の描く世界が近いかと思う。あの頃の学生は、時代背景もあって多くの不条理を突きつけられ、抱えきれない義憤をこれでもかという位抱えていたのである。

中央大学に進んだのに深い理由があったわけではない。極端にいえば、どこでも良かった。深志からは、トップレベルだと東大、京大、東北大。東北大を目指せると言われた時期もあるが、当初の理系から受験間近になって文系 にチェンジしたので東京の私大を選んだ。

私の学力は深志で中の中くらいだった。少し上だと早稲田が多 かったが、 バンカラな校風と相容れない慶応はほとんどいなかった。 早慶と同じ位のウェイトでマークされていたのが中央大学だ った。司法試験、公認会計士、税理士試験合格者ナンバーワンだったことと、箱根駅伝6連覇中の箱根駅伝王者だったからである。

私は理系、文系というよりは、体育会系である。頭より体、理屈より実行であるから、箱根駅伝で活躍している大学は魅力だった。 私自身も走るのは好きで、特に高校の剣道部では毎日1時間は走り込んでいた。スピード勝負の剣道で勝つには足腰を鍛えて瞬発力を高める必要があるからだ。おかげで塀の中の運動会では100m、800m、1500mの全てで優勝、4×100mの リレーのアンカーも務めた。さすがにフルマラソンはなかったが、 塀の中を出てからフルマラソンの大会には20回以上参加したし 、サロマ湖100kmマラソン も走った。そうした事情が強く働いていたのだろう。中央大学進学を選んだのである。

しかし、実は私が最も好きなのはラグビーである。当時の明治大学ラグビー部が今ほど強かったら 、もしかしたら明治を選んでいたかもしれない 。最近は帝京大の強さが際立っているが 、私の時代は高校にラグビー部がなかったので格闘技系の剣道部に入った 。もともと格闘技系ベースの体型をしており 、半端ない突撃力と攻撃力に加え、足が速くてスタミナもある。 ラグビーをやるために生まれてきたようなものだったが機会に恵まれなかった。 生まれたのが、少し早過ぎたのかもしれない 。

友人と2人、自転車で上京

東京には、 中学で同級だった友人と自転車で行った。小学校から高校まで、私にとって唯一の交通手段は自転車で、東京に行くにも自転車で行くのが自然だったのである 。特に深い考えはなかった。山梨県甲府市で一泊し、勝沼から八王子を経て甲州街道をこぎ続け、暗くなってから両国のアパートに着いた。

標高600mの松本から東京に向かうのだから、塩尻峠が上り坂以外は、基本的には下って行くことになる。友だちと一緒だったし痛快で、思い出に残る楽しい自転車旅だった。

アパートは3畳一間だった。隣の部屋との仕切りは襖一枚で、喧嘩も話し声もまる聞こえだった。2階には派手な化粧のおばさんがいた。相撲部屋が近くにあったせいもあってか、周辺は何やら混沌とした雰囲気だった。とんでもない所に来てしまったという気分で東京生活が始まった。

翌日が入学式だったと思う。青雲の志を抱き、自転車で上京したのだからテンションはMAXだった。入学式の総長の挨拶を真面目に聞いた。司法試験、公認会計士、税理士試験は日本一、箱根駅伝6連覇中、優勝回数は1位。 心に響くメッセージが聞けるのかと思っていたので 、通りいっぺんの大学宣伝には正直がっかりした。テンションが上がらずにいたとき会場の後ろが騒がしくなった。大声が聞こえたが内容は聞き取れない。

入学式当日から自治会室に泊まりこむ日々

入学式が終わって、 中庭でクラブ活動の紹介をしているから行くようにとの 案内があった 。中庭に行ってみると、たくさんのサークルがブースを構えて新入生を勧誘していた。剣道部、自動車部など、興味があるブースでは詳しく説明を聞いた。歩き回っていると、大きな声で何かを訴えているブースがあった。人だかりもしている。近づいてみると、自治会のメンバーたちだった。ちょうどこの年、私たちが入学した年に大学側が一方的に学費値上げ を強行したのだという。「それならなぜストライキをやらないんだ」 思ったことを私は言った。 この一言が自治会メンバー にとっては期待以上だったらしい。

しかも田舎から上京したばかりの純朴さと、小柄ではあるが一見強面の容姿を備えていた。こいつは使えそうだと思われたようだ。「自治会室に行こう」と誘われた。そして私は入学式当日から自治会室に泊まり込むという、異常な学生生活をスタートさせることになる。これが私のその後の人生を決定づけることになるとは、その時点では考えてもいなかった。

私は、なぜ「ストライキをやらないんだ」と言ったのか 。私が中学から高校の 時代は「春闘」の様子が盛んにテレビで報道されていた。 そうした時代背景もあったと思うが、 賃上げや労働環境改善など、自分たちの 権利や意見を主張するならストライキをするのが当然だという考えが私の中に育っていたのだと思う 。

当時、春闘を引っ張っていたのは 総評の太田薫と岩井章だった。議長が太田薫で事務局長が岩井章。岩井章 が松本の出身 であったことも影響していたかもしれない。春闘 賃上げ、勤務評定反対などを訴えて実力行使に出る勇姿に胸を躍らせていた。国労(国鉄労働組合)の現場労働者の紺色のナッパ服姿に「こいつらすごい!」としびれたものだった。理不尽なことを押し付けられたらストライキ 、これが私の方程式だった 。

だから当たり前のこととして 、なぜストライキをしないのかという言葉が出たのだった。抗議文を手渡すなんて生ぬるい手段に実効性があるとは思えなかった。

自治会室に行くことになったとはいえ、私は、当時の大学の自治会について何も知らなかった。自治会室に行ってみて、高校までの狭義の「自治」という意味ではなさそうだとは感じた。全学連という言葉も、先生や報道で聞いたことはあっても、実態を知っていたわけではない。剣道にのめり込み、マルクスを読めと言われて宿題のために読んだが理解はしていない、ただ漠然とした青雲の志があったというだけの無知な田舎者だった。

自治会室で何を話したか、はっきりとは覚えていない。入学式で学費値上げ反対と訴えたところで効果はないし、今からでもストライキをするべきだと主張したが実行はされなかった。新入生は私だけで、先輩も2人か3人だけだったと思う。高校の部室より少し大きい程度の部屋に長椅子を置き、そこに布団が敷いてあった。最大宿泊人員せいぜい5、6人くらいのものだった。大学初日からその中の一員になった。

当時の自治会は極めて特殊だった。私のブント時代の同志で、その後、ブント戦旗派指導者となった荒岱助が『新左翼とは何だったのか』という本の中で書いている。本書は6章(シーズン1-6)からなっているが、第4章(シーズン4)で「新左翼と自治会・労働組合運動」として自治会について触れている。

元々自治会は、男女共学化など日本の教育改革の一環として GHQ、つまりアメリカの占領軍総司令部が大学民主化のために設置させたものだ。大学によって組織の構造は異なるが、高校の生徒会とは違い大半は代表制民主主義の形をとっている。各クラスから選出された自治委員が議決権を持ち、最高議決機関である自治委員総会で、多数決によって自治会執行部を選出する。

自治会執行部を担おうとする各党派やグループは、それぞれ何らかの団体を名乗り、議案書を提出して、自分たちの主張を総会の場で主張し、投票で執行部を選出する。立候補者たちは対立党派の主張を批判しながら、白熱した議論で無党派層の自治委員たちに自分たちの主張を訴える。自治委員ではない学生たちもオブザーバーとして総会に参加しているから、彼らのヤジや怒号、拍手や歓声も最終的な議決を左右するファクターとなった。

70年安保闘争が見えてくるにつれ、自治会は、学生運動各派による激しいイデオロギー対立、対立党派間のゲバルトを助長していくことになる。私が中大で活動していたのは1965年から69年、党派間対立/党派間ゲバルトが起こり始めていた時期だった。私は、そうしたゲバルトには生理的な拒絶反応を感じていたが、積極的に阻止するまでの行動は起こせなかった。

学生運動の幕開け

新左翼学生運動は「過激派」「暴力学生」などと、メディアで盲目的に報道されバッシングされていたが、「戦争を辞めろ!」「人殺しを辞めろ!」と主張することのどこが問題なのか? 戦争の悲劇を肌で感じていた国民が圧倒的多数だった時代にもかかわらず、メディアは我々をバッシングし続けたのである。

私の学生時代は、核兵器を保有する戦勝5ヵ国が国連常任理事国となり、東西冷戦、核による人類最終戦争の危機の時代だった。併せて、植民地支配を強いられて来た被植民地諸国の民族独立の時代でもあった。1945年の北ベトナム独立を皮切りに、1947年のインド独立、1949年の中華人民共和国成立、1950年の朝鮮戦争、1955年からの南ベトナム解放闘争、1959年のキューバ革命、1960年日米安保条約改定、1962年キューバ危機、1963年ケネディ暗殺。

こうした背景の中で日本の戦後は、GHQマッカーサーによる占領から始まった。マッカーサーは、GHQ傀儡政権の首領として岸信介が適任と考えた。岸は、東条内閣の商工大臣として太平洋戦争開戦の詔書に署名し、満州の軍需経済を一手に担っていたが、敗戦濃厚となった1944年、講和を主張し、東条内閣の倒閣を画策した。岸は、A級戦犯として逮捕され東京裁判にかけられてはいたが、マッカーサーは、1948年、東条が巣鴨プリズンで絞首刑にされた翌日に岸を起訴もせずに釈放したのである。

開戦の詔書に署名した人間が、起訴もされず釈放されたというのは極めて不自然である。GHQと岸の間に何らかの密約が交わされていたと考えるのが自然である。GHQから見れば、岸は、太平洋戦争を始めたA級戦犯ではあるが、反共思想の持主で、日本を、アジアにおける資本主義の防波堤とするためには、うってつけの人材であった。岸は、1952年サンフランシスコ講和条約によって公職追放を解除され、1957年総理大臣に就任し、1960年、当然のことのように日米安保条約改定を強行し密約を実行した。弟の佐藤栄作は、核の密約をひた隠しにして、米軍基地だらけの沖縄を本土復帰させ、米軍頼みの安全保障/日本列島核防衛線を構築したのである。

この密約を暴露した毎日新聞の西山太吉記者は、裁判にかけられ投獄された。その後、密約の存在が明らかになったが日本政府は頑としてそれを認めなかった。西山記者は、最後まで戦い抜いたが、昨年帰らぬ人となった。大噓つきが霞が関を牛耳っている。不都合な事実は当たり前のように隠蔽する。こんなことが50年以上前も今も日本で横行しているのである。何をするために学問をしたのか?不正と理不尽がまかり通っている、こんなことが許されるはずがないのである。

私は、この東西冷戦/人類最終戦争の危機の時代に学生時代を送っていた。日本は、ベトナム北爆の出撃基地、兵站基地として戦争に協力し、連日、沖縄、横田の米軍基地からは米軍機が北爆に出撃し、ベトナムの民族解放運動を圧殺し続けていた。日本の軍需産業がこれをサポートし、米兵の死体洗浄アルバイトが貧者の生活を支えていた。

MI6、CIA、GPU、モサドが暗躍していた。あるいは、日本の別班もいたのだと思う。ゴルゴ13なども同時代に生まれ、作者が亡くなった今日でもなお続いている。

戦後民主主義教育を受け、憲法9条・戦争の放棄を叩き込まれた無垢な青年が、心を痛めつけられ、何かに駆り立てられる気持ちを抱いたのは自然な感情であったと思う。ビートルズが世界中の若者のハートを揺さぶり、シーシュポスの煩悶と蒼茫の青春を送っていた時期である。私の学生時代は、青雲の志に反した世界を見てしまったことによって、24時間、不正を正し、世界の行末ばかりを考える青春を送ることになったのである。遊ぶことにも興味がなく、麻雀も知らない。多分、普通の学生とは違う線路を走っていたのかもしれない。

大学1年の12月には、学生単独自主管理による学生会館獲得のために、全学バリケードストライキを体験した。中央大学は当時、大学キャンパスが、水道橋の理工学部を除いて御茶ノ水の一画に集中していた。そこに4万人の学生が押し込められ、大教室にも学生が入り切らない状態が続いていた。全国の大学でも最悪の環境であったと思う。当然の権利として、我々は学生会館の建設を要求し、しかも、その学生会館を学生の自主管理によって管理運営したいと要望したのである。大学側は、当然のように拒否した。これまた当然のように、学生は全学バリケード封鎖をもって応酬した。ほゞお祭りである。面白かった。1年後、私が全中闘委員長になって、それを実現するとは思ってもいなかった。人生は分からないものである。

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
シーズン3:1962年  
松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
シーズン5:1966年
自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト
シーズン6:1967年 
佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト
シーズン7:1968年
新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ!
成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕
シーズン8:1969年
6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名
7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流
11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅
シーズン9:1970年
1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長
2月政治局北朝鮮方針に反対
反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕
シーズン10:1970年
3月31日よど号ハイジャック発生!
逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄
シーズン11:1971年
獄中への一通の手紙
シーズン12:1984年
最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄
監獄改革、獄中の狂詩曲
■ シーズン13:1989年
早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生
仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還
■ エピローグ