高校は、先生が「行け!」というので、地元の松本深志高校に進んだ。どういう高校が良いのか、良く知らないままに受験したら受かっただけのことだったが、深志高校は、バンカラで強烈に泥くさい高校で、戦前は松本城の城郭の中に校舎があったということもあり、サムライ魂が色濃く残る特異な高校であった。「自治/自立」が、他と区別される深志生のアイデンティティとされており、7人のサムライを地で行くようなユニークな面々が多くて新鮮だった。ワンダーでバンカラ、不正、不条理への義憤、未知への探求心、少年期とは違う世界が待っていた。
60年安保改定に際して、深志高校生は全員が安保条約反対のデモに参加した。そのことが深志生の誇り高きアイデンティティーのように語り継がれ、後輩である我々も先輩たちの志を受け継ぎ、時代をウォッチし、自立の精神を養えと叩き込まれた。入学すると、まず校歌、応援歌を覚えさせられた。応援団がインストラクター役で、うす汚れたマントを着て、ほら貝を吹き、新入生を鼓舞し扇動した。女子生徒が何故か輝いて見え、異次元の空間に離陸したかのような眩暈を感じた。
問題は部活である。私はスポーツが好きだったが、身長も高くないし運動神経が良い方でもなかったが、なぜか格闘技には自信があった。格闘は気持ちの強い方が勝つからである。世の中に対する義憤が人一倍強かったが、内気で自分を表現する方法を知らなかったため、ここで壁を打ち破ってやろうと意識していた。最初は、相撲部に入ろうかと考えた。従兄が相撲部のキャプテンをやっていたからである。しかし、フンドシ姿を想像すると相撲部は消えた。
子どもの頃、ラジオで赤胴鈴之介をやっていた。それと、やはり当時ラジオでやっていた徳川夢声の「宮本武蔵」が影響したのかもしれない、剣道部を選択した。
自治の精神の徹底かどうか、剣道部に指導者はいなかった。部長も監督もなし。選手育成の仕組みもなく、練習方法から何から何まで自分たちで考えなければならない。もしかしたらそれも性分にあっていたのかもしれない。
剣道は、私を解放した。人間関係への鬱憤も、視えない権力への反抗心も、全てを竹刀一本に叩きつけた。無口で内気だった筈の自分が、強く変身していくのを感じていた。技らしいものは殆どない。しかし、ほとばしる迫力と必殺特攻が通用した。練習を重ねるごとに自分が強くなっていくのを実感できた。これまでの内向きが外向きに変化していった。
武器は竹刀であるから死ぬことはないが、私は真剣での決闘を常に想起して戦った。百分の一秒が生死を分つのである。とにかく先にコテでも、メンでも休まず攻撃する。例えば相手を見て、強そうだと思って一瞬でも怯んだら死を意味する。
剣道を始めてすぐに、私は必殺技に気づいた。試合で初めて会う相手がどんな人で何が強いか何が弱いかなど一切考えない。試合が始まったとたんに飛ぶのである。審判の「はじめ」の声が終わらないうちに、相手に体当たりして場外に突き飛ばす。3回の場外で一本である。技を磨くというよりは、ほとばしる迫力で相手を威嚇することと、必殺特攻を鍛えることに集中した。身長が低くてリーチが短いというハンディの中で勝つにはこれしか思いつかなかった。いきなり場外で相手に恐怖心を植え付ければ隙が生まれる。こちらの勝ちだ。
2年の夏合宿からキャプテンになったが、高校剣道では個人戦の他に団体戦があり、先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の5人で闘う。松本深志剣道部は、指導する部長とか監督もいなかったため練習方法も自分たちで考えなければならず、選手育成の仕組みがなかった。だから、団体戦では、先鋒から副将まで4人が負ける悪夢が続いた。しかし大将である私は負ける訳にはいかなかった。
私の剣道は威圧恐怖とスピード特攻が武器で、剣道という道を大きく外れたものだったが、試合本番では強かった。剣道の本質は必殺である。殺さなければ殺される、それが紛れもないファクトである。礼に始まり礼に終わる、なんてカッコ付けたことなど言っていられないのである。常に、桶狭間で今川義元の首を取ることを想定し、関ケ原で石田光成の首を取ることを想定して闘っていた。県大会で優勝し、掲示板に「剣道部優勝」と大書すると、最初は誰も信じなかった。一学年下の後輩たちが優勝したのである。そうした実績を引っ提げて、勝ちもしない野球部に運動部予算の大半が集中している実態にクレームを付け、剣道部の防具予算を分捕った。
秋になると学園祭の「とんぼ祭」が開催された。素敵な女生徒とすれ違った。何故か私に向かってサインのようなアクションをした。相手は私のことを知っているようにも思えたが、名前も分からない。2年に進学したら同じクラスにその子がいた。グレイスケリーに似た清楚な美しさが今でも忘れられない。
音楽部に入っていたが、後に、水牛楽団という楽団をつくり、タイの軍事政権に反対し民族音楽を広める活動に携わっていたことを本人から聞いた。浅間温泉の神宮寺で開かれた演奏会には、小室等さんも来ていて、本堂大広間でタイ式のダンスまでしたことを覚えている。
2年の夏休みに宿題が出た。マルクスを2冊読んで感想文を提出しろ!私は、当時マルクスについて何も知らなかったが、前年にキューバ危機があり、一つ間違えば、米ソ正面衝突の危機が世界を震撼させていた。だから、マルクスを勉強しておけという学校の教育的配慮であったかもしれない。
何を読んだかは、正確には覚えていないが、「共産党宣言」と「賃労働と資本」だったと思う。読んでも理解出来たとは到底言えなかった。どんな感想文を書いたかも全く思い出せない。それでも、社会政治思想の世界を知るきっかけになったと思う。その後、哲学研究会のメンバーと何回か話もしたが、これだと思うような思想や哲学に辿り着くようなことはなかった。ただ、深志高校の3年間は、その後の人生の脈動の出発点になったことは確かである。
高校3年の夏だったと思う。映画研究会に入っていた友人達が「渚にて」という映画上映に奔走しているという情報が入った。その映画を文部省が上映禁止にしたというのである。「渚にて」英語タイトルはOn The Beach。 時は1964年、第三次世界大戦が勃発し、核兵器を使用した核戦争となり、北半球は放射能で全ての生命が絶滅してしまう。アメリカ原子力潜水艦スコーピオンは潜航を続けていたため被害を免れていたが、放射能に汚染されていない南半球のオーストラリアメルボルンに向かう。しかし、そのメルボルンにも最期の時が迫る。様々な家族、恋人達の悲しい別れと死が画面に映し出される。原子力潜水艦スコーピオンも乗組員を乗せて最後の潜水に出航する。
主演はグレゴリーペックとエバガードナー。「渚にて」のテーマ音楽として流れていた曲がワルツィングマチルダである。オーストラリアの第2の国歌と言われ、本国イギリスの重税に対する反骨と抵抗の意味が込められていると言われている。
この時からおよそ50年後、私は、ロータリークラブの青少年育成プログラムで、長野県の高校生10数人をシドニーに連れて行ったことがある。老人ホームを訪問する計画があると聞き、老人ホームの老人たちと日本の高校生がワルツィングマチルダを合唱することを提案した。当日、老人達は嬉々として歌ってくれた。日本の高校生達も一夜付けとは思えない見事な合唱をした。私は、50年前の放射能汚染による人類滅亡を描いた「渚にて」を思い起こしながら、何一つ解決されていない人類史の現状に、敗北と義憤を感じ自分を叱咤しながら歌った。
※「ワルツィングマチルダ」は、オーストラリア民謡。原題は「Waltzing Matilda」、スコットランドの「Thou Bonnie Wood Of Craigielea」が原曲
(シーズン4につづく)
■ プロローグ はじめに |
■ シーズン1:1947年 敗戦、帰還船、ビルマの竪琴 |
■ シーズン2:1960年 60年安保、チボー家の人々 |
■ シーズン3:1962年 松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映 |
■ シーズン4:1965年 青雲の志 中央大学 学生運動 |
■ シーズン5:1966年 自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト |
■ シーズン6:1967年 佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト |
■ シーズン7:1968年 新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ! 成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕 |
■ シーズン8:1969年 6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名 7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流 11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅 |
■ シーズン9:1970年 1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長 2月政治局北朝鮮方針に反対 反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕 |
■ シーズン10:1970年 3月31日よど号ハイジャック発生! 逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄 |
■ シーズン11:1971年 獄中への一通の手紙 |
■ シーズン12:1984年 最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄 監獄改革、獄中の狂詩曲 |
■ シーズン13:1989年 早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生 仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還 |
■ エピローグ |