社長からの手紙

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シーズン12|1984年 最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄、監獄改革

2025.08.15 2025.08.25

1984年5月、最高裁の有罪判決が確定し、長野地検松本支部に出頭せよという、出頭命令が届いた。この時点で、会社における私の立場は約10年の勤務経験があったこともあって、専務取締役と言う立場で仕事をしていた。実際には事実上の社長の仕事をしていたが、有罪判決の怖れがあったので、父の死後、私の投獄の危険が去るまでは、形だけ母親に社長をやってもらっていたのである。

それと、もう一つ、私は2人の子供を抱えていた。仮に満期まで出所出来ないとすれば、残り5年半、どうやって家族の生活を守るか、これが最大の問題であった。合法的な手法で、考えられる最大限の準備をしたが、様々な苦労を強いたことは承知している。そのことが、私のバネになってその後の人生を大きく左右してきた。

長野地検に出頭して約一ヶ月、松本少年刑務所桐分校で、分類のための予備的な期間を過ごした。どこの刑務所にするか罪状、前科、刑期等を判断し調整する期間らしい。その間も懲役と言う刑罰が強要される。そこで初めてやった懲役仕事が滑稽で笑った。何と、松本に住んでいれば誰でも知っている地元のハギレ屋の紙のショッピングバッグを折ってノリ張りをする仕事だった。適当ということができない性格だったのだろう。毎日かなりの数量のノリ張りをした。

一ヶ月経つと、作業賞与金が計算されて提示される。見て仰天した。1ヶ月脇目も降らず仕事した作業賞与金は、何と5円だった。厚労省作成の1984年時点の長野県の最低賃金が時給412円である。月間作業日数が21.75日、一日8時間として月間作業時間が174時間、時給412円で計算すると71.688円である。

調べていただければ判ることであるが、最低賃金法には、 有罪判決を受けた囚人には最低賃金は適用されないとは書かれていない。仮に若し、最低賃金が適用されないとしても、5円と言うのは余りにも人を愚弄している。これは許せる範囲を超えており、石鹸一つも買えない金額である(板石鹸が確か30円だった)。

もし、塀の中で病気になったら、まともな医療は受けられない。生命の危険に晒され外部医療機関の診療を申請しても拒否される。塀の中に数えきれない無縁仏の墓石があることを法務省は一番良く知っている筈である。 有罪とされた人間は、人間として扱われず、基本的人権 はないと考えられているのである 。明らかな憲法違反である。 こうした現実に、法務省の人間は誰も おかしいとは思わなかったのであろうか? ナチスやスターリンの強制収容所とどこが違うのか? 1ヶ月が過ぎて、分類作業が終わり、同じ関東管区の栃木県の 黒羽刑務所に移送されることになった。

黒羽刑務所に入った。会社と同様、新入囚人向けのオリエンテーションがあった。「収容者のしおり」という 小冊子を渡され説明を受けた。 会社でいう就業規則 である。

その冒頭部分に、早期仮釈放に関する説明書きがあった。「人命を救う等画期的な改善を行った受刑者は、早期仮釈放が適用される」と書かれていた。飛び上がる思いだった。人命救助の機会は、災害とかが起こらない限り無理だろうが、「画期的な改善」なら俺の専門分野だ。

その場で質問した。画期的な改善をしたいと思った時は、どうすれば良いんですか?提案制度のようなものはあるんですか? 刑務官の返事は、「そんなものはない。作りたかったら、オマエが作れば良いじゃないか!」 痛快である。提案制度 をつくってやろうと思った。

次いで、刑務所でどういう仕事に就かせるかを決めなければならない。刑務所内を案内され10以上の工場を見て回った。当時導入され始めたばかりのワープロ/印刷工場、所内図書官本の管理をする図書係、収容者の食事を作る炊場、最悪は、工業用ミシンの部品を作る旋盤工場、それらを見て回って希望が出せる仕組みになっていた。第2希望まで出せるということで、意外と民主的な所もあるんだなと感心した。私の第1希望は図書係、第2希望はワープロだった。しかし翌日呼ばれて言い渡された工場は、最も行きたくなかった旋盤工場だった。

その時の刑務官の言いぐさが気にいらない。「オメエみたいなワルは、一番キツイ旋盤工場ってことになってんだよ!」 翌日から工業用ミシンの部品を作る旋盤工場で働き始めた。社名を言えばだれでも知っている有名なミシンメーカーである。ミシンメーカーから3人の社員が来ており指導に当たっていた。そもそも私は文系である。旋盤を触るのは初めてで、最初は恐る恐る旋盤を回していた。最初は、不良品もたくさん出したが、少しづつ慣れていった。

1日に何回かはグラインダーでバイトの研磨もしなければならない。これも慣れて来た。1ヶ月経つ頃には、不良品もほゞゼロ、工程全体も見えて来た。古い機械ではあったが、実際に作業 していると 、工程改善のアイデアが湧いてくる。ある時、工場内の官本に旋盤の専門書があることに気が付いた。それを借り出し熟読した。私は文系大学に進んだが、もともと高3まで理系の大学に行くつもりで、それ程違和感なく読み進んだ。すると不思議である。次から次と工程改善のアイデアが浮かんで 来たのである。

目盛り付きの大きいサイズの集計用紙を入れて貰い、工程改善のアイデアを書いて提案した。これが、見事採用になった。大講堂で所長から表彰状を授与された。

私は、5年半のプリズン留学で、 工程改善、作業安全、 生産性向上の為の工程 改革等10数件を提案し、うち6件が採用され た、一部上場企業の工場である。改善による経済効果、作業安全効果は相当の金額になったはずである。言い換えれば、私は、塀の中でも納税をしていたのである。

月1回の大講堂での全員集会で 刑務所長表彰を 6回受けた。所長表彰を受けたのは、後にも先にも私一人だけである。「伝説の囚人」というありがたい 称号をいただいた。 先日、法務省のHPを見る機会があった。現在は、提案箱があると書いてあった。私の改革が、法務省全体でも正式採用されたらしい。受刑者OBを法務省顧問にする ような制度を作ったらどうだろう。実情を最も良く知っている人財だからである。形だけの社外取締役以上に貢献出来る筈である。いっそ、国家公務員 の昇給試験に1ヶ月の入獄体験を科してはどうだろう。 刑罰応報主義の愚かさと教育刑のビジョンが湧いてくるはずである。

それと、驚愕したのは、囚人には階級があることである。1級から4級までの階級で、入所直後は、誰もが4級からスタートする。囚人服に軍隊と同じ白線が付けられ一目で何級かが判る仕組みである。私など政治犯は、最も危険視されて昇 級速度が最も遅い。選挙違反などの軽微な囚人は、昇級も早いし、刑期の半分位で仮釈放されていく者も多い。差別はエゲツナイ程であった。

それと、頭に来るのは階級によってメシの量が違うのである。チキンライスを盛る時に使うアルミの金型があるが、金型に4とか3とかの数字の凹みがあり、4級は金型に4の凹みのある4等飯用の金型で小盛り、おにぎり一個分位、3級は、金型に3の凹みのある3等飯用の金型で小盛り~中盛り位、おにぎり2個分位。2級は、金型に2の凹みのある2等飯用の金型で中盛り、おにぎり3個分位。私は、4級の4等飯が長かったが、2級の2等飯でも中盛り位である。若かったので腹が減った。

1級生は釈放間近の 模範囚と言われる 囚人だったが、1級になると、1級生だけのテレビ付きの特別室に居住し、メシは銀シャリで 食い放題、塀の中を自由に歩き回れる特権が与えられる。当然ながら、私が1級になることはなかった。塀の中を私が自由に歩き回 ったらどうなるか分かっていただろうからである。 日本の刑務所は、アメリカ映画の「ショーシャンクの空に」や「プリズンブレイク」、北欧の通勤型刑務所とは全く違う。明治の監獄そのままと言って良い。基本的人権 など、どこにもない。何か抗議すれば 懲罰房送り!江戸時代と変わらぬ 野蛮な後進国 なのである。 懲罰房を廃止せよ! 法務省は即実行せよ!

大杉 栄自叙伝だったか、彼の著作を読む機会があった。大杉がパリのラサンテ刑務所に収監されていた時、パリの有名レストランの フランス料理 を刑務所で食べていたという記述がある。この違いは何処から来ているのか。フランス民衆は、 皇帝の圧政に耐え兼ね、 自由、平等、博愛の旗を掲げてバスティーユの 牢獄を破壊しフランス革命を起こした。翻って日本は武家政権 時代の士農工商の身分制度が明治維新まで続き、年貢に耐え兼ねた農民の 米騒動、一揆以上の叛乱は興らなかった。

明治以降も天皇を中心とする国家統治が極めて強力で、太平洋戦争敗戦 ―GHQ占領時代以降も、目指すべき国家像が見えない まま、アメリカ頼みの平和ボケ病に侵され、自立した国家としての ビジョンもアイデンティティ も持たない 3流国家として 彷徨っている。今こそ日本の ジャッカル が求められているのではないか?

プリズン留学で、面白い制度があった。勉学室という特別ルールで申請すれば、通常午後9時消灯を1時間延長することができ、朝は明るくなれば何時から起きて勉強してもOKというルールである。独房の部屋番号札に勉学室許可という表札が付けられ、看守も一目置いてくれたりもする。 この制度は、ありがたかった。特に春から秋の季節では、早朝、早ければ5時前から本も読めたし勉強もできた。

そうすると看守との接触機会も増え、看守の方から話しかけて来ることもあった。看守と言う仕事は、言ってみれば終身刑の囚人と同じようなもので、 陽の当たらない職業である。淋しい人生であろうと思う。3日に1度は夜勤である。ある時、看守から「前田!頼みがあるんだけど聞いてくれねえか?」持ちかけられた。「夏休みの子供の英語の宿題なんだけど、俺じゃ無理なんだ!」「良いよ!持って来いよ。」中学生の英語である。 翌日だったかに宿題の用紙が届いて、次の当直時に返してやった。

看守にも様々な人種がいて、所長クラスは大学の法学部を出て法務省に入ったエリートかもしれないが、ほとんどはどこにも就職口がなくて 、法律もろくに知らない兄さん、おじさんたちが多かった。刑務所はもともと が人手不足なのである。あんな仕事をやりたいという人間は、神経がおかしいか、あぶれ者以外まずいないだろう。

それと、巣鴨プリズンの時のボールペン、ノート寄こせと同様の問題があった。房内に持ち込める書籍とノートの冊数に制限があった。ノートは1冊、書籍は3冊。これにイチャモンを付けた。曲がりなりにも勉強するには、広辞苑、英和辞典等の辞書がいる。取り組んでいるジャンルの 文献や参考書籍 がいる。ノートも一冊では整理ができない。数冊は必要だ。

提案した。しかし、刑務所は頑として拒絶した。勉学室という制度がありながら、勉学に不可欠な書籍の冊数を制限するという摩訶不思議なことを言い張るのである。何回も抗議した。すると、「懲罰だ!」と言って皮製の後ろ手錠で拘束され懲罰房にぶち込まれた。食事のときもドアをドンドン蹴って喚いても外してくれないこともあった。 重大な人権侵害である。「監獄法は憲法違反だ!」と連日、喚いた。

しかし、しばらくして所持できる書籍数とノートの冊数が増えた。最後には、辞書を含めて書籍10冊ノート5冊までの所持が出来るようになった。再犯防止、自己教育促進に役立ち、応報刑の弊害を緩和軽減することにようやく気が付いたのである。ただし、ノートは月1回の検閲があったし抜き打ち検査もあった。プリズンブレイクを防止するためである。

それと、昼間懲役作業をする工場に新聞が閲覧できるようになっていた。昼食など休憩時間に立ち読みすることしかできないが、貴重な情報源だった。ただし、のり弁のような黒いマジックで消されている箇所が至る所にあった。不都合な情報は隠蔽する、これが日本政府の悪しき習癖である。霞が関ではシュレッダー は常識である。忖度 /書き換えという独特の文化もなお健在である。何も変わっていない。

下獄前、友人たちが何回も壮行会を開いてくれた。そのとき友人に頼んだ。「クルマ関係の本とか、これはと思う本を郵送で差し入れてくれ !」クルマ雑誌は毎月届いた。 それと、司馬遼太郎の本がドサっと送られて来た。送ってくれた友人には本当に感謝している。「坂の上の雲」「 竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」「項羽と劉邦」、峠シリーズ。

それと、会社には、会社の経営実績がわかる資料と日刊自動車新聞縮刷版を毎月送るように指示して来た。それに基いて、塀の中から経営指示 や提案をすることができた。塀の中が会社の戦略経営本部だったのである。

午後7時から9時まで、NHKのラジオ放送が聞けた。ニュースも聞けたが検閲しているので聞かせたくないニュースが流れると、プツンと切れた。それでも、このラジオ放送は貴重だった。雑音だらけであるが、1972年のあさま山荘事件や、1973年のオイルショックのニュース 、日航機墜落事件などは音声だけであるが、 ほゞ聞き取ることができた。どのような歌が流行っているのかも、おおよそ知ることができた。

もう一つ、 先に紹介した「収容者のしおり」には、「房内では扉に向かって正座 せよ」と書かれている。就寝時以外、ずーっと正座していたら身体がおかしくなる。看守の目を盗んで、何とか体を動かさないと足腰がやられてしまう。

1ヶ月もいると、看守の見回り時間のローテーションとか、夜勤と朝番の交代時間が判って来るので、ローテーションのすき間時間や交代時間に集中的に腕立て伏せやスクワットをやって凌いだ。時には、ヨガの逆立ちもやった。 もし日本の刑務所で、今でもこの規則が生きているとしたら人権侵害も甚だしい。それ程、人権感覚に欠けているのである。

週に2回くらい、懲役作業の合間に運動の時間があった。グラウンドに出て、看守の見張り付きではあるが、自由に走ったり出来るのである。健康を考えれば当たり前のことであるが、この時間が貴重な自由時間であった。走ったりもしたが、同じ工場囚人間の貴重な情報交換 の機会に なった。強盗殺人や詐欺等重刑の囚人が多い工場なので、 例外なしに背負いきれない重荷を負っている 。何回も顔を合わせていくと、自然と塀の中の奇妙なグループが出来て来る。走りながら、何をやって捕まったのか、刑期は何年か、奥さん、子供はいるのか、 その奥さんとはどうなっているのか、引受人はいるのか、出所後の仕事の見通しはあるのか、何か力になることがあるのかなど話をする。

殺し叩き詐欺以外の囚人は、私だけで提案制度を作ったり何回か所長表彰を受けていると、皆が一目置いて私を見るようになり 塀の中の唯一の インテリゲンチャ のような雰囲気が 醸成されていた。それとケンカも強そうだし、人情にも厚そうだ 。あるとき出版社は忘れたが 「昭和史」に 私の名前が出ていたと 長期刑の囚人が宣伝したため、 前田さんてスゴイ ことやったんだね えと言う「伝説」になった。

塀の中では、時折、囚人同士のケンカが起こる。 昼間、工場で作業をしていると、突然、物凄い音がして殴り合いが始まる。ケンカの原因は何でもあり、看守が飛んで行ってすぐ収まるが、たいてい懲罰房送りになって、何日かすると戻って来る。 少し親しくなった塀の中の友人から、俺は字が書けないから、代わりに 手紙を書いてくれないかと頼まれたことがあった 。奥さんから「離婚届」が送られて来たということで、離婚を思い留まってくれるよう手紙を書いてくれ ないかと言うことだった。 罪状や刑期からすると簡単ではないことが想像出来た。しかし、塀の中で 涙ながらに懇願され ると、可能性は殆どないだろうと思っ たが、何とか引き受けることにした。

奥さんの微妙な心理状態も分からない。それでも友人の切ない想いを切々と伝えた。 工場で真面目に働いていること、2度と過ちを犯すようなことはしない、彼の帰りを待っていて欲しい。 手紙は私が独房で書き、工場に出勤する時、囚人服の下に隠し持って工場で本人に渡した。字体も真似て書いた。友人は満面の笑みを浮かべて受け取ってくれた。翌日に発信したと聞いた。

2ヶ月ほどは、何の連絡もないようで落ち込んだままの状態が続いた。ところが、奥さんから「2度と過ちをしないと誓うなら待っている」との手紙が届いたと言うのである。私まで歓喜して飛び上がった。 私は、塀の中で代筆屋もやっていたのである。

塀の中では、定期的にソフトボール大会とかサッカー大会、大運動会が開かれる。 私は工場の5分休憩時間でも腕立て伏せをやったり、グラウンドに出て運動 ができるときには、時間中フルでグランドを走り回っていたので、運動会では常に事実上の リーダーだったが、刑務所側は私に絶対に 刑務所公認のリーダーをやらせなかった。統率力が半端ないと見ていたのだろう。それでも100m、工場対抗4×100mリレー、1,500mでは優勝か必ずメダルを取った。短距離も速かったし、タフで中長距離も速かった。釈放後、毎日20km走り、100kmマラソンで完走出来たのも塀の中のトレーニングがものを言ったのである。

月に一度は、大講堂で「男はつらいよ」など映画を見る機会があった。寅さん映画は、塀の中でも大好評で、高倉健の「幸せの黄色いハンカチ」も塀の中で見た。 年に1回は、有名な歌手が慰問に来て音楽会が開かれたり、宇都宮のナイトクラブ の女性が来たり、一度は収容者選抜カラオケ大会まで開催されたことがある。本物より上手いと思わせる囚人もいて、看守まで拍手する始末である。何しろ1,300人以上の収容者がいて、時々ガス抜きをしないと思わぬ事態が起こることも予想され、更生にも何がしかの効用があると見ていたのだろう。

入所して4年目位のときだったと思う。所長から、塀の中の技能オリンピックに出ろとのお達しがきた。全国の刑務所では、金属加工、家具木工等の工場があって 製品販売会が行われている。その技能を競うオリンピックだと言うのである。そんなオリンピックがあること自体知らなかったが、黒羽刑務所代表で私が出ることになった。私は、普段はタレット旋盤という種類の旋盤を動かしていたが、大会で使われるのは普通旋盤だということで、大会1週間 位前から普通旋盤の俄か練習をして大会に臨 んだ。

会場は、埼玉県の川越少年刑務所で、看守付きで護送され大会に臨んだ。 何年かぶりに黒羽刑務所の塀を出るのである。栃木県黒羽から 埼玉県川越まで 護送車で高速道路を走った。理屈なしにテンションが上がった。

初めて見る図面が渡され、それを制限時間30分以内で作り、タイムと品質で審査するというルールだった。開始のゴングが鳴らされ、頭の中で瞬時に工程フローを考え旋盤を回した。 務所を出てから旋盤でメシを食う訳でもないし、刑務所対抗の技能大会で優勝してもしなくてもどうと言う話ではなかったが、それでも負ける訳にはいかないという競争本能が湧いて来るもので、1位にはなれなかったが銀メダルを取った。頑張る必要など これっぽっちもなかったが、生まれ持ったDNAかもしれない。黒羽刑務所に帰って大講堂で表彰された。

それともう一つ麦メシのことで、びっくりしたことがあった。ロッキード事件で田中角栄が逮捕され巣鴨から移転したばかりの小菅の東京拘置所に入って来た。前日までの麦メシは、限りなく黒に近い、ほゞ黒の麦メシだった。ところが、田中角栄が収容されて来たその日から限りなく白に近い、ほゞ白の麦メシに 急変したのである。当時の法務大臣が誰だったかは思い出せないが、田中角栄が入って来ると なると、こうも違うのである。法務省が官邸に忖度していたビックリファクトである。黒麦を減らし銀シャリを増やせという所長命令が出たのだろう。多分、所長も試食をしてOKを出したのだろう。

(シリーズ13へ続く)

シリーズ目次

プロローグ
はじめに
シーズン1:1947年  
敗戦、帰還船、ビルマの竪琴
シーズン2:1960年  
60年安保、チボー家の人々
シーズン3:1962年  
松本深志高校、剣道、キューバ危機、宿題がマルクス、「渚にて」強行上映
シーズン4:1965年 
青雲の志 中央大学 学生運動
シーズン5:1966年
自治会委員長、全中闘委員長、全国初学生単独管理学生会館要求バリスト
シーズン6:1967年 
佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田空港突入!中大学費値上げ白紙撤回バリスト
シーズン7:1968年
新東京国際空港:成田は経済効率最悪/豊穣農地破壊! 東京湾上に作れ!
成田空港公団突入総指揮/逮捕、防衛庁突入総指揮/逮捕
シーズン8:1969年
6月保釈出所、7月共産主義者同盟分裂:赤軍派を除名
7月共産主義者同盟学対部長、9月共産主義者同盟離脱/赤軍派に合流
11月武装蜂起部隊全員逮捕、主力部隊壊滅
シーズン9:1970年
1月中央人民組織委員会委員長、基盤人材獲得全国長征/長征軍隊長
2月政治局北朝鮮方針に反対
反対派多数戦線離脱、3月15日最後の逮捕
シーズン10:1970年
3月31日よど号ハイジャック発生!
逮捕、「不起訴の約束」は反故、起訴、投獄
シーズン11:1971年
獄中への一通の手紙
シーズン12:1984年
最高裁で謀議当日のアリバイが証明された。しかし判決は有罪、下獄
監獄改革、獄中の狂詩曲
■ シーズン13:1989年
早期仮釈放嘆願10万人署名/仮釈放内示、大韓航空機爆破事件(金賢姫)発生
仮釈放取消、プリズン留学12年満期出所、松本帰還
■ エピローグ